近況―Ephemerons はかなきものたち

selavy2009-01-25

ご無沙汰して居ります。正月以来、変な頭痛に悩まされ、病院に通っております。ようやく先週くらいから収まってきましたが、一時は痛みが激しくて、のた打ち回るような状態でした。(念のため、来月、脳の血管を詳しく調べてもらうことにしております。)こんな有り様なので、ネットへのアクセスも、メールをチェックするくらいになってしまいました。(日記が更新されないのを心配して、メッセージや電話を下さった方も何人かいらっしゃいました。厚く御礼申し上げます)。
外出もなるべく控えるようにしています。目黒や浦和など、いろいろ重要で魅力的な展覧会があったのですが、年が明けから出掛けたのは次の4展だけです。どれも知り合いと誘い合わせて(言わば付き添ってもらって)行きました。
A.川村記念美術館の「絵画の森。戦後日本美術の作家たち」展
B.横浜美術館セザンヌ主義」展
C.千葉市美術館「雪舟水墨画」展
D.国立新美術館「DOMANI・明日」展
国立新美術館の展示は、文化庁が昭和42年に始めた「芸術家在外研修」を受けた作家の展覧会で、特に駒形克哉さんの細密な切り絵が並べて展示されている一室が壮観でした。川村記念美術館では瀧口修造のデカルコマニー(上図)や吸取紙の作品が20点ほど出品されていました。瀧口修造没後30年に相応しい展示だったと思います。(夏には私も別のギャラリーを借りてコレクションの展示を計画しております。)
この途中で神保町の某T書店にも2回ほど顔を出しました。(例年、この時期に大学の同級生の集まりが開催されているのですが、今年は欠席しました)
こんな中でうれしかったのは、畏友石原輝雄氏から近著「Ephemerons : Traces of Man Ray」が送られてきたことです。これは「Descriptive list of exhibition catalogues, posters, and invitations 1913 to 2008」つまり1913年から2008年に至るマン・レイの展覧会のカタログ、ポスター、案内状、ビラ・チラシなど展覧会の印刷物(これを「エフェメラ」と呼ぶが、蜻蛉や一晩で萎れる花など「短命のはかなきものたち」の意味もある)、841点に及ぶ資料のリストで、「個展とグループ展に別けられ、都市と会場、展覧会の表題、会期、素材の種類とサイズ、展示品数と分類、テキスト執筆者、来歴、献辞等々」などのデータが詳細に記されていますが、すべて石原氏所蔵であるのが凄い! しかも、装丁からレイアウト、タイポグラフィなども自らこなされたばかりか、自分で作った出版社から刊行するという徹底ぶりです。
前に刊行されたマン・レイ油彩カタログ・レゾネといい、今回のリストといい、マン・レイの研究上、最も重要な基本文献であることは言うまでもありませんが、何よりもマン・レイと彼をめぐる「はかなきものたち」への深い愛情に裏付けられているところが素晴らしい。いや、そんな生易しいものではなく、下手に触ると火傷をするほど、熱くて危険な思いが放射され、まさにマン・レイに対する35年にわたる情熱の結実そのものということが出来ると思います。これで定価5000円(税込み)、送料を入れても5500円とは、信じられない安さです。(限定75部のNo.1は著者本で、そのNo.2を送ってくださったのも、うれしい限り)。
詳細は次のブログで。http://d.hatena.ne.jp/manrayist/20100123

年末の挨拶

12月26日(金)、午後から横田茂ギャラリーの村上友晴展を見に行く。「マリア礼拝堂」と題された展示。iconとされる油彩5点、pietaとされる鉛筆画5点と、点数は多くはないが、倉庫の一角の大きなフロア全体がまさに礼拝堂と化していた。
横田さんと村上友晴の作品や来年の岡崎和郎展のことなどを話す。しばらくすると鎌倉の有名な額装店TアートのIさんも来廊された。来年の予定などを話す。年末の挨拶をして、ギャラリーを後にする。
JRでお茶の水駅に出て、神保町へ。某T書店に行き、先日の一人展のことなどを話す。私が買った堀口大学上田敏の本のことを話すと、棚から在庫を取り出して見せてくれた。こちらの方が状態はよかったが、2冊とも半値以下で入手できたことが判明。「それはいい買い物だったね」と言ってくれた。
ちょうどそこへ「先日電話した三重の者ですけど・・・」と、若い女性が店に入ってきた。「父の蔵書を処分したいと・・・」「ああ、あのT市にお宅があるという、あれはあなたでしたか」と、打ち合わせがはじまったので、年末の挨拶をして店を後にする。
新刊書店を覗いて、6時前に某M翁にいくと、店の前に10人ほどの人が立っている。「しまった、出遅れたか」と思い近づいていくと、「準備中」の札が出ている。「変だなあ」と思いながら、ガラス戸を開けて、「今日はもう店仕舞いですか?」と訊くと、中にいた女将さんが恐縮しながら「まことに申し訳ないんですけど、予約のお客さんで席が全部埋まってしまって・・・。すみません」と説明してくれた。
そういえば、この日はこのあたりの小さな出版社や編集部なども御用納めの日だし、ただでさえグルメサイトやグルメ雑誌で紹介されて、人気が出てしまったのだから、仕方がない(こんな日に予約無しで入れると思っている方が、時代遅れか浮世離れなのかもしれない)。だが、15年ほど前から通っている身としては、ふらりと来ても入れた頃がなつかしい。
駿河台下までトボトボと歩いて戻り、讃岐うどんの店で天ぷら盛り合わせとビール。最後に温かいうどんで〆る。これはこれで美味しかったが、やはり一抹の寂しさというか、物足りなさが残った。



12月27日(土)、この日こそ某M翁で年越し蕎麦をと、張り切って家を出る。途中、有楽町の店で無地の日記帳を買う(ネット上で知り合いが紹介していたもの)。銀座まで行き、クドウで洋菓子を買う。歩いて京橋経由、丸の内に出て、Vでフランスパンを買う。
知人宛に速達を出さなければいけないので、中央郵便局で出す予定だったが、前まで歩いていくと、金属製のフェンスがめぐらされていた。何と建替え工事中で閉鎖され、八重洲北口に仮の店を開いているそうだ。
舌打ちしながら八重洲口への通路を捜すと、東京駅も建替え工事中で、資材置き場か何かの仮設フェンスが大きく道を塞いでいる。右に左にうろうろ迷い、駅前のロータリーを大回りして、ようやく丸の内北口から八重洲口側へ抜ける連絡通路の入り口を発見した。
通路の人ごみをかきわけかきわけ、外堀通りの横断歩道を渡って、やっとのことで仮店舗?に辿り着いたが(有楽町駅から1時間以上歩き続けたことになる)、ロビー内は年末なので大変な混みようだ。順番が回ってくるまでさらに10分ほど待たされた。
JR東京駅から御茶ノ水駅に向かう途中、「これでまた某M翁の行列に並ぶとなるとシンドイなあ」と気が変わり、昨日に続いて某T書店に行く。常連さんを交え、国際情勢や政治情勢についてしばらく話し込む。年末の挨拶をして4時過ぎに店を出る。(2日続けて年末の挨拶をするとは、まったくシマラナイ話だ。)
横浜まで戻り、今年の春頃に地元の商店街の真ん中に開店した蕎麦屋に入る。初めてなので、とりあえず天ぷら蕎麦をいただいたが、天ぷらも手打ち蕎麦も悪くなかった(頼まないと天ぷら用の塩を持って来なかったのはいただけないけれど)。これから贔屓にしよう。
何にしても、今のご時勢ではこうして平穏に過ごせ、食べ物にありつけただけでも、良しとしなくてはいけない。ただ来年は、世界も日本の個人的にも、もう少しマシな一年であってほしいものだ。皆様もどうぞよいお年を。

一人展など

selavy2008-12-25

12月19日(金)、一年ぶりに健康診断を受ける。心配していた血圧は何とか正常範囲に収まっていた。体重はあれほど努力したつもりなのに、ほぼ横ばい。今年から腹囲も計測された。○○センチ。メタボの基準を軽く超えている。去年は「要精密検査」となって、大きな病院を訪ねる羽目になったが、さて今年はどうだろう。

12月20日(土)、知り合いの画商さんと誘い合わせて昼食をともにした後、世田谷美術館の「山口薫―都市と田園のはざまで」展を見る(右図は「花子誕生」1951年)。その画商さんは昔、山口薫に洋画を教わったことがあるという人で、会場を回りながら、要点を解説して下さった。
初期のフォービズム風の風景画、ピカソ風の人物画などは、当時の西洋絵画の動向を熱心に研究していたことがわかる。さらに30歳に達した1930年代後半頃には、叙情的な色彩で理知的な画面を構成する独自の画風にいたる。以後、60歳で亡くなる1968年まで、着々と画業を展開した跡が辿れる。特に第二次大戦中に描かれた「銃」「ある葬送」「水」「紐」などの作品が心に残った。
他に回るところがある画商さんとはここで別れ、午後2時から群馬県立近代美術館学芸員さんの講演を聴く。1時間半を超える詳細な説明で、情報量が多かったが、もう少しコンパクトでもよかったかもしれない。講演後、再び会場を一回り。図録を買おうかと思ったら、売り切れだった。最近NHKの美術番組で紹介され、入場者が急増したそうだ。主催者側にとっては喜ぶべきことなのだろう。
2階の常設展「難波田史男展」。点数が多く、なかなか見ごたえがあった。学芸員のNさんに挨拶して会場を後にする。
田園都市線半蔵門線で神保町へ。某T書店に行く。店頭特価本に「ユリイカ」などが出ていたので、何冊か購入。店主と若冲や永徳のこと、さらには年末年始の過ごし方などを話す。クレーの研究書などを購入。御茶ノ水からJRで帰宅。

12月23日(火)、昨年から始まったF書房の「一人展」に行く。(朝一番に家を出るつもりだったが、年賀状の作成に昼過ぎまでかかり、神田の古書会館に到着したのは2時を少し回った頃となってしまった。)
会場に入るとショーケースの向こう側に店主が立っていた。早速ご挨拶し、今回の目録に掲載された本や、私の今の蒐集状況、さらには先日の某テレビで鑑定された宮沢賢治資料のことなどをうかがう。瀧口修造の書肆山田刊『地球創造説』に協力した時のことなども話してくださった。
会場には旧知のKさん(稀覯本の若き大コレクター)もいたので、ご挨拶する。今回の売れ行きについて聞くと、目録に図版が掲載された本の大半は、注文が3〜4件重なり抽籤となった由。やはり(数十〜百万円くらいの価格帯の)めったに出てこない稀覯本には、熱狂的な固定客が居るということだろう(ただ一般的な数千円〜数万円あたりの本は、売れ行きに翳りがあるようだ)。この日も開場前に熱心な愛好家が列を作ったため整理券まで配布されたそうで、事前に売れた本以外でも、めぼしい商品は12時の開場と同時にこうした人たちに買いつくされてしまったらしい。某T書店でよく顔を合わせる知り合いなどの姿もちらほらお見かけした。
もう一人の稀覯本界の重鎮Oさんの姿が見えないので、Kさんに「どうしていらっしゃる?」と訊くと、「今ちょうど食事に出ている」とのことで、Kさんがわざわざ携帯で呼び出してくれた。早速ご挨拶し、先日の早稲田付近の研究会で発表した際、Oさんが編集された詩集と年譜が大変役に立った旨お礼を言う。Oさんは、編集作業のことや、使った資料の行き先などを教えてくださった。
堀口大学上田敏の評論集2冊を買い、会場を後にする(計3300円也)。この後、美術書を中心にしているK書店、Bギルドなどをハシゴ、さらに新刊書店を3軒覗いて、JRで帰宅。

僕たちの自画像

selavy2008-12-21

12月13日(土)、知り合いに誘われて横浜美術館の「セザンヌ主義」展を再訪。今回はそれほど混んでおらず、じっくり見ることができた。セザンヌのアトリエを改装した記念館についてのビデオも興味深く拝見した。
MM21のとんかつチェーン店で昼食にした後、30分ほど歩いて開港記念館まで行く。地元横浜に住んでいながら、建物の内部に入るのは初めてだ。ボランティアの人が説明してくれた。ホールや貴賓室は重厚かつ実に優雅だ。現在も公会堂や貸会議室として利用できるようなので、何かの機会に是非利用してみたい。
中のコーヒースタンドで一服(スタッフのおばさんが、常連客とおしゃべりしていて、あまり感じがよくなかった。肝心のコーヒーも、朝淹れたのをホーロー引きのポットで暖め返したもので、味も香りもなかった。)。
馬車道まで戻り、そこから伊勢佐木町商店街にかけて、古本屋を何軒かハシゴ。プラトンの解説書などを購入。その後、JRで新杉田駅に行き、線路脇のラーメン屋で早めの夕食にする。豚骨醤油味の元祖の直系の店らしく、濃厚だがさっぱりした不思議な味だ。
歩いて磯子駅まで戻り、近くの公会堂で蝋燭能の公演を見る。番組は狂言「棒しばり」、能「羽衣」。シテ櫻間右陣は、かすかに体を揺らすだけで天女の心理を見事に表現しており、素晴らしかった。

12月18日(木)、午後から出掛け、練馬区美術館の「石田徹也―僕たちの自画像」展を見る。美術館の建物に入り、展示室への階段を上がっていると、ロビーのソファーに有名な美術研究家Sさんが座っているのが見えた。Sさんはサラリーマンとして働きながら現代美術の資料や近代・現代美術作品を蒐集してきた方で、数年前、そのコレクション展が三鷹市美術ギャラリーで開催されたこともある。ロビーに引き返してご挨拶し、そのまましばらく近況などを話す。
石田徹也展は、やはり第一室に展示されていた「飛べなくなった人」(上図)、「燃料補給のような食事」、「社長の傘の下」など、1990年代のアイロニカルな作品がよかった。
第二室に展示された2000年頃からの作品は、画面が大きくなり、作品としてはシリアスで本格的になるが、90年代の飄々とした感じは失われ、凡庸ともいえるような印象も受ける。キリン・コンテンポラリーアート・アワードやVOCA奨励賞など、いろいろな賞を受けたのだが、それがかえって不幸だったのかもしれない。もちろん31歳の若さで(踏み切りで)亡くなったという事実の痛々しさも重なってきて、見るのが若干つらかった。改めて作家にとっての作品を制作すること、人間にとって生きることの意味について考えさせられる。
浜松町の横田茂ギャラリーに行くつもりで、練馬駅で乗り換えて都営大江戸線で大門に行くことにしたのだが、乗り換え方がわからず、勘違いして小竹向原まで行き、また練馬まで引き返すことになった(練馬駅のホームに案内表示が無いのは不親切だと思う)。結局、40分ほど時間をロスし、大門駅に着いたのは6時近くになってしまった。ギャラリーに寄るのを諦め、そのまま帰宅。

素朴美の系譜

selavy2008-12-14

12月8日(月)、松濤美術館の「素朴美の系譜」展のオープニング・レセプションに出席。平安末〜鎌倉期の「華厳五十五所絵巻断簡」(重要文化財)、室町期の「長谷寺縁起絵巻」「かるかや」、さらに江戸時代の大津絵、白隠(右図)から仙崖に至る禅画、浦上玉堂、岡田米山人の南画などが並ぶ。「かるかや」は、図録によると、高野山善光寺を舞台とする苅萱道心と石童丸父子の物語を描いた、通称「奈良絵本」の中の一つで、「室町後期に展開された素朴様式の白眉」とされているらしい。絵本の原型のようなものだろうか。確かに心を打つものがある。
続いて近代の画家から横井弘三の作品がまとまって展示されていた。子供や家族を描いたものが多いが、いずれも素晴らしかった。画面の遠近感が独特で、「日本のアンリ・ルソー」と呼ぶ向きがあるのも頷ける。その中でも関東大震災後、傷ついた児童の心を癒そうと、各地の小学校に寄贈するために制作した200余点のなかの一作、復興児童に贈る絵「童心静物」に惹かれた。雑誌「子供之友」「婦人之友」などの挿絵の原画も、素晴らしいものだった。エナメルのような特殊な画材で描かれたらしい。他にも特殊な医療器具を用いて紙を焦がして描いた作品なども、興味深かった。代表作がほとんど失われたらしいとは残念なことだ。
入り口付近にもどると、長徳寺の六道絵、続いて芭蕉の発句自画賛「はまぐりの」と蕪村の「征馬図」も展示されていた。
2階は近代の画家・文人たちの作品だった。小川芋銭は当然としても、そこから小杉放庵、森田恒友、万鉄五郎、岸田劉生らが描いた南画へと続くのが面白い(森田恒友は先日の横浜美術館セザンヌ主義」展でセザンヌ風の風景画を見たばかりだ)。さらに梅原龍三郎中川一政熊谷守一へと続くのは、なかなか考えられており、説得力がある。
奥のコーナーに展示されている夏目漱石武者小路実篤などの絵も違和感なく見ることができる。「素朴」ということについていろいろ考えさせられたのはもちろんだが、全体にほのぼのとした雰囲気に満ちており、穏やかな気持ちに浸れる。年が明けてから是非また訪れたい。

12月10日(水)、知り合いのMさんとフェルメール展に行く。時間が十分にあると思い、午後から出掛けたのだが、会場に辿り着くと長蛇の列で、「ただいま1時間待ちです」とのこと。すでに一度見ているので、一人だったらたぶん諦めて帰ったと思うが、Mさんはまだだったので、そのまま列の最後尾に並ぶ。
ちょうど1時間ほどで会場内に入れたが、中は予想していたほどは混んでおらず、少し待ちさえすれば最前列で見ることもできた。Mさんは最初のヤン・ファン・デル・へイデンやファブリティウス、ホーホあたりですでにかなり興奮されていたが、やはりフェルメールの作品には感激もひとしおの様子だった。
その後、茅場町に行き、タグチ・ファインアートと森岡書店を再訪する。さらに日比谷線で六本木に行き、Mさんの友人3人と合流して、鈴木重子さんのライブを楽しむ。あまり好きなタイプではないので、それほど期待していなかったが、やはりプロの歌い手さんだけのことはあった。クリスマス・ソングやゲストの遊佐未森さんとのデュエットはなかなか聴かせるもので、終り近くの「マイ・フェバリット・シングズ」以降の数曲は文字通りの熱唱だった。地下鉄で浜松町駅に出て、JRで帰宅。

瀧口日和(その2)

selavy2008-12-10

12月7日(日)、フランス人の美術研究者F先生にお目にかかるため、午後3時に表参道に行く。声を掛けてくださった仏文学者A先生の方が先にいらっしゃっていた。「F先生、このあたりに住んでいる日本人の教え子に昼食に招待されているそうで、まもなくいらっしゃると思います」とのこと。そのまま二人で近所の喫茶店に入る。
しばらくすると、教え子のB先生(表参道在住)と高名な仏文学者C先生に伴われて、F先生がいらっしゃった。そういえばB先生・C先生はF先生の著書の翻訳者だった。少し立ち話した後、「喫茶店より研究室で」ということになり、タクシーでA先生の勤め先の大学まで移動。車中のの会話で、F先生は1970年代から何度も日本にいらっしゃっていると判明(今回が6度目か7度目らしい)。フランスのシュルレアリスム絵画などを研究する傍ら、日本美術、特に1920年代からの前衛絵画に関心をお持ちで、以前、来日されたときには福沢一郎と小牧源太郎にも(通訳を伴って)インタビューされたそうだ。
やがて大学に到着。ちょうど夕暮れから日没にかけての時間帯で、「日本は空も街も光がとても美しい」とおっしゃっていた。研究室の隣の小会議室に入り、持参した資料を見ていただいた。だが、1930年の「アトリヱ」シュルレアリスム特集号や「みづゑ」の特集号「アルバム・シュルレアリスト」など、持参した資料の多くは、前の来日の際すでに調査済みだった(目次や図版リストを活字化しリーフレットにされていた!)。
その中で、阿部金剛の「シュールレアリズム絵画論」(天人社、1930年)は「初めて見る資料だ」と喜んでおられた(が、図版を見てシュルレアリスムといえるかは、少し疑念を抱かれたようだ)。奥付の著者検印のシールを珍しそうにご覧になって、「これ、何?」と訊かれたので、日本の検印の仕組みを説明すると「とっても合理的ね!」と感心されていた。
やがて瀧口訳『超現実主義と絵画』についての話の流れから、話題はほぼ瀧口修造に絞られた。前に福沢一郎にインタビューしたことがあるくらいだから、瀧口のこともある程度の予備知識はお持ちで、むしろ話がしやすかった。
1930年代のパリのシュルレアリスムとの関係、「カイエ・ダール」シュルレアリスム特集号への寄稿、若い前衛画家たちとの関係、政治的立場、特高に検挙された事情、太平洋戦争中の戦争画や瀧口の署名入り記事の問題、戦後の批評活動、ヴェニスビエンナーレに行ったときの話、60年頃からの瀧口自らの水彩・デカルコマニーから最晩年のオブジェの店を開く構想に至るまで。F先生はメモをとりながら、興味深そうに聞いておられ、時おり、鋭い質問が来る。特に「オブジェの店」については非常に面白がっておられ、目を輝かせながら「本当に店を開いたの?」と聞かれた。「いや、あくまでも架空の、コンセプチュアルなもので、美術品の展示・流通システムの別の姿を構想しようとしていたようです」とお答えすると「ああっ、なるほど」と感心されておられた。
2時間ほど話したところで、切り上げる。持参した資料の図版頁などをA先生がコピーして下さっている間に、F先生に著書にサインをいただいた。そのまま3人で少しはなれたJRの駅まで歩き、近くのモダンな和風食堂に入る。海老とアボガドのサラダ、マグロのフライ、牛タンなどに赤ワイン。
F先生、来日中にNHKから急に声が掛かって、佐伯祐三について話してきたそうで、食事の間はほぼ佐伯の話題(上図)。なぜあれほど人気があるのか、なぜ死に至ったか、などなど。A先生はブルトンについての論文も発表され、翻訳もある方なので、「そういえば、佐伯はオテル・グランゾム(偉人館ホテル)に泊まっていたんですよ」と話を向けると、間に入って通訳してくださったA先生の方が驚いて「えーっ?」と訊き返してきた。「いや、佐伯はブルトンと同時代の人で、佐伯がパリの街を描いていたのは、まさにブルトンがアンゴの館で『ナジャ』を書いていた頃で、ブルトンと入れ替わるように偉人館ホテルに宿泊しているのですよ」と説明し直した。
F先生の方は「オテル・デ・グランゾム」「ナジャ」などの言葉で私が何を話したかすぐわかったようで、「そうそう、そうなのよ。ちょうどブルトンと時期が重なっているのよね。佐伯がオテル・デ・グランゾムに泊まったことに反応した日本人は、あなたが初めてだわ。やっぱりシュルレアリスムに関心をもっていると、いつもブルトンの動きや顔色を伺う癖がつくのね」という意味のことおっしゃったので、3人で大笑いとなった。
そこから「同時代の人なのに、佐伯の方が古いように感じるのは何故か」という、比較文化の問題に話が展開していった。翌日には教え子のB先生と箱根に行くとのことで、最初は「あまり遅くならないうちに」とおっしゃっていたのだが、結局、閉店時間までいることになった。
F先生・A先生は方向が同じだそうで、タクシーに相乗り。私はJRで帰宅した。瀧口修造生誕105年の誕生日に相応しい、楽しい一日となった。

茅場町・早稲田

selavy2008-12-08

12月5日(金)、天気予報によると、夕方から激しい雨になるとのことだったので、午後早めに家を出る。まず茅場町のタグチ・ファインアートに行き、韓国の若手作家キム・テクサンkim taek sang の「hue of wind(風の歌)」展を見る。この作家は2年ほど前にも見たことがあるが、今回は新作展だ(右図)。

色を重ねた跡や、カンバスのマージンが意図的に残してあり、前回よりもさらに透明感が増している。月並みな比喩だが、まるで宝石のようだ。平面なのに画面に奥行きがあるように立体的に見える。中西夏之などもそうだが、透視図法・遠近法に拠るのでなく非具象的な平面上で、画面にこういう奥行きを実現するのは、凄いことだ。先立つものさえあれば是非手元に置きたいところだが・・・。

http://www.taguchifineart.com/installations/KTSinst2.html

階下の森岡書店に寄ると、客は誰も居らず、留守番の女性Oさんが一人でいた。斉藤周さんという、北海道在住の作家さんの展示作品を説明してくれた。写真用のパネルに白や淡い色調の絵の具を塗った小品を、壁面や床にまで展示している。至るところからゲリラのように作品に襲撃されるような感じだ。展示には時間がかかったと思うが、この店の空間に合っていて実に面白い。
しばらくこうした感覚を楽しんでいると、突然、窓ガラスが音を立て始めた。大粒の雨がガラスを叩く音だった。窓越しに稲光が光り、雷鳴もとどろいた。ちょうどそこへ森岡さんが帰店された。表は激しい雷雨だそうで、ジーンズの裾が濡れている。

小止みになるのを待って店を出、東西線で早稲田へ。このあたりの某所で夕方から開催される小さな研究会に出席する。この日はレポーターだ。瀧口武士と西脇順三郎について少し報告する。他のメンバーは皆、大学の講師と院生で、わざわざ名古屋や長野から出て来る人もいる。突っ込まれるかと心配していたが、それなりの準備はしたので、何とか発表を終える。
研究会終了後、出席者全員で近くの飲み屋に繰り込み、焼き鳥、シューマイ、湯豆腐、刺身などを酒肴に日本酒の熱燗。発表の重圧から解放されてかなり飲んでしまった。最後、焼きソバで〆る。大手町まで戻り、東京駅から東海道線で帰宅。「ムーンライトながら」の出発が遅れたとのことで、そのシワ寄せで普通電車まで遅れる。これなら京浜東北線の各駅停車で帰ったほうが早かったかもしれない。何とか家にたどり着いたのは1時近く。

寝る前にパソコンでメールをチェックすると、「例のフランス人の先生が7日の日曜の午後をご希望なので、よろしくね」とのメッセージが・・・。
一気に酔いが醒め、おまけに夜中、激しい腹痛に見舞われてしまった。