103YEARS,EVEN!

12月7日(木)、曇り。午後から三田まで出かけ、慶応義塾大学デジタルアーカイヴ・リサーチセンターおよびアート・センター主催の、アート・アーカイヴ資料展「ノートする四人 ― 土方、瀧口、ノグチ、油井」を観る。

実はこの展示は、先週の土曜日(2日)にもザッと眺めていた。というのも、あの日に顔を出した中西夏之氏のレクチャー&シンポジウム「アーティストはアーキヴィスト!」は、この展示の関連企画だったのだ。ただ、レクチャーの方に集中して、展示は駆け足になってしまったので、今日、つまり瀧口修造の生誕103年目の日に、改めて出直したというわけ。


瀧口に関する展示は、ノートの中でも「日録」にテーマが絞られ、予定などが書き込まれたカレンダーと、「日録」というタイトルを付されたテクスト(すなわち1969年の「日録」と、1973年の『星と砂と 日録抄』の二点)に関連した資料が展示されていた。(この他にも、メモ帖の類が10冊以上はあっただろうか…。これもフォンタナなどとの交流の様子が窺えて面白かった。)


カレンダーでは、「千円札事件」に関する箇所や、1968年から開始されたオリーヴの収穫の箇所が展示されていた。まさに記録魔といってもいいほど、さまざまな人々との交流の模様が具体的に書き込まれている。これは瀧口の生涯を検討する上で、まず当たるべき一次資料だろう。
(逆にこれだけ具体的に記録が残されていると、某S画廊主のように「瀧口先生と親しく交流していた。書斎をたびたび訪れ、教えを受けた」などと権威付けのために語っても、事実のはずがないと、簡単にわかってしまうだろう。もっともS画廊主の場合は、彼自ら書いた文章でもすでに、そういう言説が虚構だと馬脚を現しているのだが…)


1969年の「日録」は、日本読書新聞に発表されたもので、当初は何回か連載される予定だったが、執筆途中で入院することとなり、一回のみとなったそうだ。原稿の実物は、おそらく掲載した日本読書新聞側に渡され、現在は行方不明のようだが、瀧口が手元にコピーを取って残していたようで、そのコピーが展示されていた。発表された(『コレクション瀧口修造』に収録された)テクストと比較照合すると、若干の異同がある。つまり誤植もしくは手稿の誤判読がそのままになっている箇所があるようだ。(この点は展示のキャプションでも指摘されている。)
「二月某日 ここまで書いたところでわが身に急変あり、“ああ”これが私の絶筆というものになるかも知れぬぞ……と思いながら救急車のタンカから夜明けの空をあおぐ……寒風におそろしく雲足が早い。 ― 然し、私は救われた。仮にも……」
これがその「日録」の末尾なのだが、この部分はたぶん病院で薬袋か何かの裏に書かれ、その紙片が原稿用紙に添付されているようだ。筆跡も確かに変わっている。(この点も展示のキャプションでも指摘されている)


1973年の『星と砂と 日録抄』に関する展示は、同書の普及版と、その原稿のコピーだ(特装版と原稿の実物は展示されていない)。このコピーにも、一部に書き込みされている箇所があるが、こちらの方は、刊行されたテクストに書き込みが反映されているようだ。
この『星と砂と 日録抄』は書肆山田から刊行されたものだが、普及版は八つ折りの一丁そのままという簡素なもので、特装版よりはるかに好ましい(特装版は表紙に青いシープ革、見返しにマーブル紙、本文用紙に和紙を使用)。
ところで、展示のキャプションでは「八つ折りのままの形態であるため、読者は紙を広げ、上下に持ちかえながら、表と裏に散りばめられたページを追わなければならない」という趣旨の説明がされていたが、これは奇妙だ。この体裁はフランス装に倣ったもので、ペーパーナイフでカットすることが想定されているのではなかろうか。実際、そうすれば、上下に持ちかえたり裏返したりせずに、自然に順序どおりに並んだ頁を辿ることができるのだ。

こういう枝葉末節のところはさておき、今回の手帖や手稿、メモなどの展示を観て、瀧口の、その都度手を加える、あるいはあえて完成を求めず未完のままにしておくという、徹底してアクチュアルな(そしておそらくはシュルレアリスムの根幹に関わる)精神の片鱗に、改めて触れることがきた。この点で、貴重な、素晴らしい展示であり、主催者・スタッフの努力を多としたい。