閑中忙あり

6月某日、微熱が続くので、近所の医者に行く。アレルギー性気管支炎で「しばらく安静にしていなさい」とのこと。5月の京都旅行が少し強行軍だった上、京都から帰って始めた肉体労働(?)の過程でカビの胞子を大量に吸い込んだためらしい。その後、半月ほど寝込む。
6月某日、ようやく起き上がれるようになったので、とりあえず近場の横須賀にある私設美術館に行く。ここはボイスの(マルチプルを中心とした)蒐集で有名なところで、ちょうど、ボイスの特集展示をしていた。その足で観音崎横須賀美術館にも行く。開館まで揉めに揉め、館長人事にも幻滅させられたが、常設展示はなかなか充実していた。某週刊誌の表紙絵を長く担当していた画家の個人記念館も併設されていた。郷愁をそそられる絵の数々がこんなモダンな建物に収蔵されるとは、妙なものだ。こちらはそのまま素通りした。
6月某日、渋谷の松濤美術館で「大辻清司と写真」展を観る。研究者Oさんと学芸員Mさんが担当しただけあって、大辻清司という写真家の輪郭全体に初めて触れることができたような気がする。会場の構成の仕方も随分工夫されていた。もっと早く観るべきだったが、体調が悪かったので仕方がない。神保町のT書店でしばらく話した後、茅場町のTファインアートに回る。珍しく現代美術ではなく、オルメカの出土品が並べられていた。こんな貴重なものをこれだけまとまった形でそろえるのは大変だっただろう。ところが国内の美術館からはコンタクトが無く、海外から何件か照会があったのみだそうだ。これも奇妙なことだ。
6月某日、神保町のT書店に行き、ある近代詩集のコレクター氏の蒐集品に関する、その後の情報をもらう。N書店の知り合いに挨拶してから、三軒茶屋に回り、小・中学校の同級生数人とイタリア・レストランで飲む。40年振りだ。当然、すっかり容貌が変わり、街の中ですれ違ってもたぶん気が付かなかったと思うが、会話は昔とまったく同じ口調なのが面白い。
7月某日、毎年の瀧口修造の命日に菩提寺の龍江寺で開催されている追悼会に、地元の詩人さんたちが誘ってくれたので、富山まで出かける。50人近く居ただろうか。雨の中、墓前に白薔薇をお供えし(これも地元の方々が用意してくださったもの)、般若心経を唱和してから屋内に戻り、詩の朗読・琵琶の演奏などが奉納された。気持ちのよい集まりだった。翌日はあいにく強い雨模様となったのでどこにも行けず、とりあえず富山市立図書館で資料を閲覧する。ただ、『コレクション瀧口修造』も所蔵していないほどなので、これといってめぼしい収穫があるはずもなくなく、持参した文庫本で半日ほど時間調整する。夕方の飛行機で帰京。
7月某日、早稲田で開催された某研究会に顔を出し、二人の発表を聴く。どちらも15年戦争期の前衛芸術に関するもので、知らない事実も多く、なかなか有益だった。台風の前で出席者が必ずしも多くなかったのが惜しい。何故この時期の日本の前衛芸術が「シュルレアリスム」と総称されるのかは、たいへん興味深いところだ。何にしても、この「シュルレアリスム」という言葉は、それ自体である種の、人を惹きつけ動かす力があるようだ。
7月某日、神保町のT書店に顔を出す。常連のお客さんの正宗白鳥についての話に感心する。帰り道、さくら通りを歩いていると、Gという洋食屋さんを発見する。10年ほど前には九段側の裏通りにあり、よく通ったものだ。地上げに遭って、見当たらなくなっていたので、閉店したのかと思っていたが、こちらに移転していたとは!そのまま吸い込まれるように店に入り、当時のままの海苔ご飯もうれしい洋食弁当を注文する。
7月某日、世田谷美術館の「青山二郎の眼」展と常設展、静嘉堂美術文庫の「青磁の世界」展を観る。展示はもちろんよかったが、暑くて疲れた。二子玉川駅構内の喫茶店で小1時間休む。
7月某日、パソコンの調子がおかしく、起動しないようになったので、修理に出す。「データの保持は保証できません」と言われていたが、1週間ほどで何とか無事に戻って来た。だが、修理したはずなのに相変わらず状態が安定せず、突然、勝手に再起動したりするので往生している。