マイ・フェイヴァリット・シングス

11月某日、午後から渋谷の松濤美術館に行き、"Great Ukiyo-e Masters"展の後期を観る。写楽の「市川蝦蔵の竹村定之進」と並べて展示されていた、歌舞伎堂艶鏡という謎の絵師の絵が興味深かった。写楽の大首絵から輪郭を取り除いたような奇妙な絵。見たのは初めてだ。ことによると写楽を名乗った絵師(たぶん歌麿)の別の変名かもしれない。もちろん、これ以外の春信、北斎なども堪能した。
学芸員のMさんにご挨拶し、しばらく2階展示室の応接でお話しする。完売となった図録、来年の中西夏之展、久万美術館の展覧会、等々。京都の永徳展のことを話そうとすると、行動がすっかり筒抜けだった。このblogを読んで下さったそうなのだ。ありがたいけれど、恥ずかしさも覚えた。
芦花公園駅まで行き、世田谷文学館の「植草甚一 マイ・フェイヴァリット・シングス」展を観る。映画、ジャズ、ミステリー、読書や散歩についての資料(古書、写真、原稿、自らのコラージュ、書簡・メモ・日記、洋服など)をコンパクトに展示するもの。以前ここで開催された瀧口・武満展の展示を想い出し、懐かしさも覚える。かなりの入りで、こちらも図録は完売だそうだ。漱石展や埴谷展に比べて観客は若い人が圧倒的に多かった。『知らない本や本屋を・・・』を片手に、元町や本牧界隈の古本屋を訪ねて回ったのは、つい昨日のことのようだが、四半世紀も経ったわけだ。あの頃でもすでに多くの店が店仕舞いしており、がっかりしたものだ。
館を出て千歳烏山駅へと歩き始める。ふとジェリー・マリガンの名盤「ナイト・ライツ」の中の「フェスティバル・マイナー」のメロディが浮んできた。歩くリズムに合わせて口笛で再現しようとしていると、途中の烏山神社を過ぎたあたりで、突然、前方から「あれっ!」という声がした。見ると、自転車に乗った学芸員のYさんだった。こちらも驚いて、「ちょうど今、拝見してきたところですよ」と応える。「確かもう烏山は引っ越されたんでしたよね。遠いところをわざわざ。ところで瀧口修造宛の植草甚一の書簡、ご覧いただけました?」 「えーっ、それは見落としました」 「ユリイカのコーナーのケースに展示していたんですけど・・・。以前、瀧口・武満展の準備のときにご遺族のお宅で見つけて、いつか植草甚一展を開催する時には是非展示しようと思っていたんですよ」 「それは是非拝見しなくては」
ということで、Yさんと一緒に引き返し、もう一度観ることにする。「ユリイカ」表紙のコーナーに行ってみると、確かにケースの中に書簡が展示されていた。(内容は、前に植草が瀧口と会った時に話題にした本を、近所の古本屋で見つけて買っておきましたから、今度お渡しします、というようなもの。何の本かは不明)。二人の間に何らかの交流があったことがわかり、しかも、映画界の先輩でもある瀧口に対して、5歳年下の植草がかなり気を遣っている様子が窺え、たいへん興味深かった(ちなみに、没年は二人とも1979年)。
文面を読んでいるうち、銀座のバー「ガストロ」のマスターに「植草甚一は瀧口さんのことをどう見ていたんでしょう?」と訊いたときのことが思い出された。確か、瀧口さんがお洒落でダンディだったという話の流れで、こんなことを尋ねたのだった。マスターの答えは「たぶん怖かったでしょうね」というものだった。(「ガストロ」のことは、前にもこのblogに書いたことがある。http://d.hatena.ne.jp/selavy/20051118)。ロビーに降りてこられたYさんとKさんにお礼を言って、館を後にする。年明けの永井荷風展も楽しみだ。
千歳烏山から急行本八幡行きに乗り、神保町まで出る。T書店に行き、早速店主に植草甚一展のことを話す。「あの頃は米軍キャンプがあったから、本牧とか横須賀の本屋には洋書が出たんだよ。横須賀には米軍向けのヌード劇場もあったし、一石二鳥、一挙両得だったなあ・・・」と昔話。「ガストロ」マスターの話をすると、「瀧口さんは相手に威圧感を与える感じはしなかったけどね」と言う。 「でも筋が通って居ましたからねえ。好き勝手に生きている人間から見ると、やはり畏怖の念は抱いたんじゃないですか。澁澤龍彦もそんなことを言ってますよね」 「ああ、そういう怖さね。それはそうだな」 さらにそのまま瀧口修造のことや植草甚一のことを話し込んでいると、6時半近くになっていた。「ああ、もうこんな時間か。閉めよう」
店を後にし、N書店に寄って知り合いに挨拶。九段下寄りの天ぷら屋Iに寄ってから、帰宅。