すべては粛々と

永井荷風の「花火」に次のような有名な一節がある。
「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持ちのした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフユー事件について正義を叫んだ為国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」
いうまでもなく荷風が「大逆事件」に遭遇した際の記述なのだが、どうやらこれは今とまったく無関係な過去のことではないらしい。
ネットに掲載された知り合いの日記を読んでいたら、今日執行された死刑囚4人のうち、少なくとも2人は冤罪の可能性が高いそうだ。その知り合いが見たテレビの報道によれば「検察の調書は不自然そのもので、この死刑囚を犯人とするには大きな無理がある」由。そのうえ、「死刑囚は一貫して無罪を主張し、再審請求中であった」という。実に重苦しい気持ちだ。
ここ数年、死刑判決が急激に増えているうえ、冤罪の可能性があろうがなかろうが、法務大臣は「すべては粛々とやらせていただきます」と、死刑が確定したら機械的に(法務大臣の言葉を借りれば「ベルトコンベアーのように」)、死刑台へと送り込む方針らしい。執行のニュースはまだまだ続くのだろう。
「我々は一斉に起つて先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」
時代閉塞の現状」の中で石川啄木はこのように書いているが、今の時代に生きている我々は一体どうしたらいいのか。