ピンチヒッター

5月1日(木)、訪れたのは馴染みの古本屋のはずなのだが、いつもと店の様子がまったく違っている。映画かテレビドラマで見た芸者置屋のような雰囲気で、玄関の右側には、幅の狭い木の階段があり、二階の廊下に通じているらしい。左側には四畳半くらいの和室があり、真ん中に掘り炬燵がしつらえてある。そこに店主が腰を下ろして、何だか暇そうに新聞を読んでいた。どうしたのか聞く間もなく、眼鏡越しに、そしてやや上目づかいにこちらの顔を見るなり「しばらく留守にするから、代わりに店番をやってくれないか」と言う。
「ええっ、私がですか?」と訊き返すと「ああ、頼むよ。そんなに長いあいだじゃないし、他に判っている人間もいないから・・・」と言うのだが、どうやらそのまま戻ってこないつもりらしいことが、何となく伝わってきた。「やったことがないし、できるかなあ」と渋っていると、「付けてある値段のとおり売ればいいんだよ。お代を頂いて、包んでお渡しするだけだから、簡単だろう?」と言う。
だが、売れた後の仕入れと品揃えはどうするのか、その目処がないとジリ貧になることは目に見えているので、なおも躊躇していると、店主は構わず、さっさと立ち上がって上着をはおり、「大丈夫、あなたならきっとできる!」とか何とか、どこかで聞いたような台詞を確信に充ちた口調で言い残して、そのまま出て行ってしまった。
「お客が来なければいいのだが・・・」と、少し不安に思いながらも、「まあ、何とかなるさ」と開き直って腰をおろし、掘り炬燵の上に本を広げて読み始めたのだが、こういう時に限ってややこしいことが起きるもので、(ある不始末が原因でとうの昔に退職させられたはずの)使用人Y君が、どういうわけか奥の方から出てきて、「この間の本はどこにありましたっけ?」と訊いてきた。どの本のことで、どういう事情なのか、不思議なことに判ってしまい、咄嗟に「これは本当のことを言うとまずいぞ。裁判沙汰にもなりかねない」と判断して、「何の本だっけ? ピンチヒッターなので、よく判らないけど」と、とぼけて答える。
「ちゃんと聞いておいてくれなくてはねえ」と言うと、Y君は背後の薬箪笥のような家具の引き出しを片端から開け、中を捜しはじめた。目の前にあったので逆に気がつかなかったようだが、それはまさに、ちょうど読みはじめたその本だったのだ。「見つかったらどうしよう」と、炬燵の中に隠そうとしてみたが、金縛りにあったように手が動かず、声もかすれて出ない。ひたすら「どうしよう、どうしよう」と焦るばかりだった。
ちょうどそのとき、表のガラス戸がガラガラッと開き、吉永小百合の演じる夢千代の姿をした奥さんが、独特のイントネーションで「ただいま」と言いながら入ってきた。先ほどのふてぶてしさは何処へやら、Y君は態度を一変させ、猫なで声で「おかえりなさい。いまお茶を淹れてきますね」と言うと、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。「ずいぶん遅かったですね」と、こちらも早速、店番を交替してもらった。
ごたごたから解放されてホッとしつつも、「せっかく古本屋になれるチャンスだったのに惜しいことをした」と、少し残念な気持ちで通りを歩いているところで、目が覚めた。