ほら吹き男とチェス狂い

あるミク友の日記に引用してあったフィンランドのジャズマン、ジミ・テナーのインタビューは、とても面白かった。
あのような、いい加減な受け答えや、どこまで本当でどこからが嘘なのかわからないような話をする人が、ジャズマンには結構多い。

先だって亡くなったジョージ川口さんのほら話は有名だった。というよりも、この人はほら話しかしないといってもいいほどで、周囲の人たちは常に抱腹絶倒だったらしい。英会話も達者だったそうで、ボキャブラリーといえば“Oh Yah!”の一言だけなのに、その言い方を変えるだけで、どんな相手とも、どんな話でも通じた、と聞いたことがある。私が愛読していた山下洋輔のエッセイだって、一種のほら話だろう。

ほら話を好んでするのは、一見、音楽とは何の関係もない、個人の資質に係わることのようだが、実はそうとも言い切れないと思う。サッチモのようにおどけて見せるのと、マイルスのように無表情を押し通すのとでは、まるで正反対のように見えるが(実際、マイルスのしかめっ面は、サッチモへの反発だったらしいが)、この二通りの姿勢は、現実を客観化し、また相対化する、一種の批評精神が根底にあるところでは、共通しているのではなかろうか。

現実があまりに馬鹿馬鹿しく、悲惨で、不条理だからこそジャズを演奏する。たたかう音楽としてのジャズ。そして、ジャズマンのほら話も、こうした批評精神が形を変えて現われたものと言うこともできるかもしれない。まあ、あまり力まないで、いい加減に聞いている方が、ジャズらしくて良いのかもしれないが…。

現代美術でこうした批評精神の持主といえば、やはりその代表はデュシャンだろう。録音で残されている対談が、非常に知的でソフィスティケートされていながら、飄々とした感じがするのは、どこかジャズマンのほら話と通じるところがあるような気がする。

デュシャンがチェスに没頭したのも、おそらくは戦争に向いつつある現実に、背を向けたものだろう。戦争のあまりの馬鹿馬鹿しさに愛想をつかし、でも声高に反戦を叫ぶのではなく、「センソーするくらいなら、チェスでもやっていた方がましだ」と、実際の態度で示したのだと思うのだがどうだろう。