上野・上野・有楽町

台風の雨も一応上がったようなので、昼過ぎから東京に出かける。まずは上野の芸大美術館「NHK日曜美術館30年展」へ。この天気なのに予想外の人だ。NHKグループの動員力は空恐ろしい。

最初の地下2階の展示室など、五重六重の人垣越しでないと見ることができない。展示作品にはそれぞれ、放映したときのゲスト文化人のコメントを記載した小パネルが組み合わされており、読み耽る人も多くて、流れが滞り勝ちなのだ。白洲正子司馬遼太郎池波正太郎五木寛之池田満寿夫等々のファンには親切かもしれないが、興味を持てず、少々うんざり。念の入ったことに、会場の中央には大きなディスプレイが2つ3つ設置され、こうしたコメントを映像で間断なく流している。満席の盛況ぶりだ。作品よりもこちらに時間を割く人の方が多いかもしれない。

ところで肝心の作品だが、高橋由一「鮭」図から始まり、黒田清輝関根正二、松本俊介などが続く。見覚えのある作品も多く、懐かしさを覚えたりもする。あちこちから借りてきた作品の割合がおそらく9割以上に上るのだろう。NHK・芸大の力を誇示するかのようだ。だが、狩野芳崖「悲母観音」などは下図のみで、本図が展示されていない。「芸大の所蔵だろうが。ケチらず出せ!」と言いたくなる。(実際には下図を拝見できる機会の方が少ないのだから、こういう貴重な機会には、あれこれぶつぶつ言わず、よく観ておくべきなのだが…)

3階のフロアに行くと、部屋が広くなって少し余裕も出て来る。こちらではコメンテーターとして主に造形作家が選ばれていることもあって、読んでみようかという気にもなる。横山操の「雪富士」や未完の絶筆を観ることが出来たのは、まさに僥倖だ。最後のコーナーには、丸木スマ田中一村高島野十郎などが展示されていたが、「これらの作家を発掘したのも日曜美術館です」という趣旨のキャプションが嫌味な感じ。

この番組が果たしてきた啓蒙的な役割は大いに認めるし、その宣伝こそが開催の目的なのだろうが、総じて「日本の文化をリードしている(?)NHKと芸大が、手を組んで開催すると、こういう展示ができるんだぞ。どうだ、参ったか!」というような姿勢が感じられて、後味が悪かった。

東博が無料入館日に当たっていたので、喜び勇んで入り、「中国書画精華」と抱一「夏秋草図屏風」を再度観る。芸大美術館とは対照的に人影がまばらで、落ち着いて観ることができた。常設だけでこのくらい内容を伴い、品格のある展示ができるのが、本来の美術館の力量であり、文化の厚みだと思うのだが、今の日本にこういう美術館は、どのくらいあるのだろう。

JRで有楽町に戻り、出光美術館の「風神雷神図屏風宗達光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」展を観る。「1階まで行列が出来ている」という事前の噂は、あながち嘘ではなく、建物の入り口に警備員が居てエレベーターに誘導している(こんなことは初めてだ)。すぐに満員になり、扉が閉じたが、乗り切れない人も残ったようだ。会場の中に入ってみると、芸大美術館に劣らず混んでいる。日本美術の展示だから、よいことではあるのだが。

展示はいきなり宗達の屏風から始まる。風神、雷神の図像の由来を解説したパネルを隔てて、次の部屋に光琳の屏風、間を空けて、その隣に抱一、という順路。さらに次の2部屋で、夏秋草図屏風、梅図、杜若図などの植物の系譜を辿るという構成。

風神・雷神図だけで比較すると、元絵である宗達の屏風が確かに優れており、光琳、抱一と下るに従って、描き方が図案化され(絵画とイラストの違いというのか)、神の姿が卑俗化されていく。この点は素人眼にも歴然としていた。会場の解説パネルも、全体の構図を重ね合わせたり、眼・髪・臍・手足など、3点の細部を比較したりして、自ずとそういう結論に導く。だが、三者の「風神・雷神図屏風」だけを取り出して相互に比較しても、あまり生産的な話にはならないように思う。これらの模写を、光琳や抱一の仕事全体の中に位置づけて考えることも必要ではなかろうか。

そもそも光琳や抱一が模写したのは何のためだったのだろう? 例えば光琳の模写で、あれほど雲を風神・雷神の周囲に濃く描かれているのは、神の図像を浮かび上がらせるためというより、宗達の「たらし込み」による雲の描き方や効果を体得するためだったのかもしれない。抱一の場合は、光琳の屏風の裏に「夏秋草図屏風」を描くことの方が本当の狙いで、これを描くために、光琳の風神・雷神図屏風も、行きがかり上、模写してみたとは考えられないだろうか。抱一の「夏秋草図屏風」と「風神雷神図屏風」では、完成度に差があり過ぎるのだ。

光琳・抱一の屏風にも落款があるので、一応はそれぞれが完成品なのかもしれないが、この落款はむしろ「元絵ではありませんよ」と謙虚に語るものと見た方がよいと思う。その点では、植物図の系譜を辿った最後の2部屋の展示は、なかなか興味深く観ることができた。特に抱一の銀箔の巧さ・見事さに、改めて唸ってしまった。

台風の後の素晴らしい夕映えを見ながら、電車で帰宅した。