ハシゴの弊害(その2)

何故、人は美術品を観るためにわざわざ美術館に行くのだろう? そこに美術館があるから。これはあたりまえのことかもしれない。だが、美術館というものが近代に初めて生まれたものである以上、美術館を訪れるのは、近代以降の特殊な観賞の仕方であることは、事実だろう。

美術館が無かった時代でも、例えば江戸時代には、庶民は浮世絵版画を買って楽しんでいたのだし(このためゴッホなどは、江戸の社会をユートピアと看做していたというエピソードは有名だ)、伝統的な日本家屋には床の間があり、四季折々、掛け軸を換えていたものだ。このように、身の回りに美術品があって、日頃からごく自然に接するのが、本来の美術との関わり方だろう。

明治維新後は、このユートピアは存続できず、「富国強兵」「文明開化」のスローガンの下に、西洋を模範として官製の美術展や美術館が創設された。この枠組みは第二次大戦でも崩壊せずに温存され、戦後はさらにこれを強化するものとして、マスメディアも登場した。そして彼らが主催者となり、欧米から美術品を借りて来て展示する「企画展」を開催したのだ。美術館ばかりでなく百貨店も会場として使われた(今でも客寄せのために「○○美術館」というコーナーを設けている百貨店は多い)。

一方、美術館は、「もはや戦後ではない」と宣言された頃からバブル期に至るまで、公立・私立を問わず全国各地に建設された。その大半は、建物ばかり豪華で収蔵品にはお金をかけていないし、肝心の収蔵品も、印象派やエコール・ド・パリなどの西洋美術を中心とするものが多くて、特色が明確ではないことが多い。お金をかける場合には、人寄せの目玉となる1〜2点の作品に何億円も払われたりすることがある。それでも常設コレクションを持っているならまだいい方で、中には「所蔵品を持たない美術館」なども存在する(今も国が東京のど真中に何百億円もかけて建設しているらしい)。

こうして出現した多くの美術館は、維持費が嵩むことから、バブルがはじけるとお荷物扱いされるようになった。そんな扱いをするのなら、「もともと、何のために建設したのだろう?」と疑いたくなるくらいだ。人員削減や運営の外部委託などによって経費節減が図られる一方、入場料収入の増大が追求され、今や展覧会の成否は、入場者数のみで判断されるようになっている。メディアが主催する企画展では宣伝が繰り返され、そうではない展覧会でも、紹介してくれるメディアにすり寄るようになる。美術館は、メディアへの依存度をますます高めるとともに、収集や観賞の場というより、劇場の性格を強めるようになっているといえよう。

では、観衆の一人としてこの状況にどう対処するか? 企画展に限っても、次のような選択肢が考えられる。①メディアの主催する企画展には一切関わらない。②興味を惹かれる企画展に絞って訪れる。③企画展を片端から訪れてありがたく享受し、収支の改善に貢献する。②、③の場合には、美術館の本来のあり方や、背後でメディアが果たしている役割とその功罪などを意識しておいた方がいいことは確かだろう。