透明な巨人

10月某日、午後から横浜美術館まで「シュルレアリスムと美術」展を観に出かける。その前にMM21の某家具店に寄り、本棚を物色。(本を床に積み上げているので、本を探し出すのにやたらと時間がかかるのだ。)休日なので売り場に入る順番が来るまでにかなり待たされ、しかも、いざ中に入ると家族連れで大変な混みようだ。ことに本棚は学習机やベッドなどと同じフロアなので、あちこちで子供たちが鬼ごっこや隠れん坊をしている。幼い頃、家族でデパートに買い物に連れて行かれ、階段で兄とビー玉遊びをしていた記憶が、ふと蘇った。いろいろ目移りして迷っているうち時間ばかりが過ぎ、結局、本棚は買わず終いだった。
歩いて美術館に行き、展示を拝見する。第一部(導入部)から、各テーマ別にまとめられた第二部、そしてその後の展開と、大きく三部に分けられている。特に第二部・第三部は、シュルレアリスムがイメージというものを森羅万象とコミュニケートする媒体として開拓したという見方で裏付けられており、よく考えられた構成だと感心した。安易に「謎」「不思議」「無意識の世界の視覚化」などの言葉に逃げていないところが好い。シュルレアリスムに関する展覧会も、いよいよ新たな段階に入ってきたなあという感慨を覚えた。
担当学芸員Nさんの講演も聴講した。スライドを用いて展示の構成とその意図を説明するもので、特にこの美術館が所蔵するダリの1942年の三部作「幻想的風景」についての新解釈が大変興味深かった。その解釈によると、この三部作は、米国の富豪ヘレナ・ルビンシュテイン(化粧品事業で財をなした女性だという)の食堂を飾っていたものだが、その中の「英雄的正午」は、アンドレ・ブルトンの「透明な巨人の神話」を踏まえて改変した、ブルトンに対する意趣返しの意図があるのだという。
1941年、大戦を避けて米国に渡ったブルトンは、翌年秋に「シュルレアリスム市民権申請書(First Paper of Surrealism)」展を開催し、そのカタログ(確かデュシャンの装丁で、穴のブツブツ開いたチーズの断片を写した写真の表紙だったと思う)で15からなる神話の階梯を提起した。「透明な巨人の神話」はその階梯の最後に置かれた神話であり、当時からいろいろな解釈が試みられているが、この時期のシュルレアリスムの鍵を握る重要な考えが示されているらしいということについては、異論はないようである。そしてブルトンは、同じ42年末、ある大学で講演した際に、すでに除名していたダリのことを、改めて「ドル亡者」と厳しく批判したという。
ダリの方は、ブルトンのこの批判を逆手に取り、ブルトンがカタログの図版で示した「透明な巨人の神話」のモチーフを、ダリお得意のパラノイア・クリティックの方法で転用・換骨奪胎して歪めた上で、こともあろうに富豪の食堂のための油彩画に用いることによって、「透明な巨人の神話」なる概念と、それを持ち出したブルトンのことを痛烈に反批判したのだという。二つの図柄をスライドで並べて見せられると、なるほどと思えるし、描かれた時期もピタリと合っている。Nさんのこの新解釈はなかなか説得力があるようだ。
講演後、会場にいた初対面の年配の方に声を掛けられ、他の4〜5人の愛好家(?)とともに、Nさんや館長さんを囲んでしばらく歓談した。聞けばこの年配の方は、ある学会を主催されており、どうやらその学会には私の師匠筋にあたる先生も関係されているらしい。世の中は意外と狭いものだ。