「さるのこしかけ」と「内包」

3月18日(火)、数字合わせの作業も漸く終了したので、午後から外出。浜松町の横田茂ギャラリーで、岡崎和郎展「”さるのこしかけ”が与えられた時、補遺の庭に立ち現れた三つの知覚像」を観る。
いくつかの立体と写真が組み合わされたインスタレーションで、その立体とはa.知り合いからのプレゼントであるキノコ「さるのこしかけ」、b.切り取って来た「花梨」の木の幹と枝、c.セメント製の「花梨」の実、d.針金と粘土で作られた鳥の巣、e.樹脂製(一見アルミ製に見える)の供養塔など。特に「さるのこしかけ」は、まるで岡崎さんの「庇」シリーズのひとつとも見える。逆に「庇」の方が「さるのこしかけ」のひとつかもしれない。そのあたりのそこはかとないユーモラスな感じが、絶妙だ。
これらに梅の古木の写真(満開の花が手彩色のドットで描かれている)が組合され、ギャラリーのスペースが三つの庭と化しているのだが、いずれも季節感に溢れ、まるでお花見に来たような気分になってくる。しかも決してピクニックではなく、あくまでも「お花見」であるところが不思議だ。岡崎さんが長年思索を巡らしてきた「補遺」のコンセプトが、また新たな段階を迎えているようだ。
ちょうど来訪されていた他のお客さんも交え、横田さんと横須賀美術館の若林奮展のことや個人コレクションのこと、オークションに出たという運慶作の大日如来坐像の行方、さらには米国の経済情勢、特にサブプライム・ローン問題などについてしばらく話す。
続いて茅場町のタグチ・ファインアートに行き、中川佳宣”connotation”「内包」を見る。これは岡崎さんの「庇」と同様、壁面に架けて展示する数点の立体で、古い農家から見つけ出された農機具か牧畜用の器具か、あるいは大きな植物の果実のような生命力を持った何か、つまり物体と生物の中間に出現した新たな存在のようにも見える。いずれにしろ農園や植物に関連した何かを連想させるのは、その白とこげ茶の色彩のためだろうか。それとも、以前の作品が確か「農夫の園」というような名称だったからだろうか(後で確認したところ「農夫の壷」だった)。
ずいぶん年を経ている作品のように見えるが、近作だそうだ。どういう風に表面を処理しているのだろうか。紙、布、皮などで作られたその表面は、いずれも丸々と膨らんでおり、いろいろな想像を誘うが、外からは中に何が入っているか、何が生まれ出てくるかは、判らない。
田口さんと内外の絵画市場の動向や最近の経済情勢、さらには外国為替の展望などについて意見を交換する。前回展示されていたチェン・ルオビンの画集・カタログを頂いて帰宅。
夜、京都の友人から電話があり、先日訪れた村井弦斎旧邸付近で営業している古書店の目録に1920年代の雑誌「山繭」が数点載っていると教えてくれた。もちろん関心はあるが、値段がこちらの想定価格の3倍くらい付けられているようなので、いずれにしろ見送りだろう。この古書店の目録は、転居を繰り返すうちに届かなくなってしまったが、注文できなくては、目録を送ってくれと頼むこともできない。