上野から神保町へ

4月15日(火)、朝9時過ぎに電話が架かってくる。この時間ならコレクターの大先達Kさんだろうと思い、受話器をとると、予想に反して「もしもし、Oです。」と懐かしい声がした。音楽関係の方で、最後にお目にかかったのは6年ほど前だろうか。いつもタダ券を回して下さっていたが、今回も「20日に池袋でコンサートがあるんだけど、来ませんか」とのお誘い。20日は写真美術館でシンポジウムがあるので、残念ながらご辞退したが、お互いの近況や、共通の知り合いの消息などを、しばらくおしゃべりした。
久しぶりによい天気になったので、午後から出かけることにする。朝の電話のためか、誰か知り合いに会いたい気がして、二人にお誘いの電話を入れてみたが、一人は「電源が入っていないか、電波の届かないところに・・・」となり、もう一人はつながったものの、先約があって不可だった(その日の昼に電話して、午後から会おうというのも、無理な話だ)。仕方なく上野に出て、一人で東博の「国宝 薬師寺」展、常設展示と東洋館の「蘭亭序」展、さらに西洋美術館の「ビーナス」展を観る。
「国宝 薬師寺」展では、日光菩薩月光菩薩の二立像と「吉祥天」像を拝見できた。両菩薩立像は、順路が工夫されており、高い位置からお顔をよく拝むことができたし、順路を抜けて、下のフロアーに設置された像に近寄ると、下から見上げることもできた。さらに光背が外されているので、後ろ姿、背中もよく見ることができた。照明は太陽光線のようなハロゲンランプの光りと、LEDだろうか、月の光りのような少し青みがかった光りがミックスされ、像の滑らかな地肌がいっそう美しく輝いていた。展示設営・照明を専門とするスタッフがいると知人から教えてもらったが、たいへん良い仕事だった。
「吉祥天像」は、麻布に描かれた国内最古の女性像だそうだが、ふくよかなお顔の、目鼻立ちも鮮やかな描写がよく残っていた。手前の順路の壁面には、その拡大された画像が2台の液晶テレビによって映し出されていたが、これは、実物より後に置くべきだろう。スライドでもよくあることだが、実物は画像よりはるかに小さい上、照明も暗くされているので、画像の方が断然美しく(ということは実物がやや貧相に)見えてしまう。
常設展示では襖絵・屏風のコーナーが面白かった。中国の宮中の物語が描れた正面の屏風は、木の枝の線描から狩野永徳の弟子筋だろうと見当をつけたが、ズバリ狩野山楽だった。右手の女房三十六歌仙図屏風は土佐派に見えたが、まさに土佐光起だった(これは画題からして当然だが・・・)。手前の扇面切貼屏風は、花の描き方から、抱一より時代が下った琳派と見たが、これも酒井鴬蒲だった。少しは眼力が付いてきたのかもしれない。錦絵・浮世絵では歌麿の「山姥と金太郎」のシリーズが面白かった。
東洋館の「蘭亭序」展は、書聖王義之の「蘭亭序」の拓本を展示するもの。「蘭亭序」は、永和9年(353)年3月3日の節句の日に、王義之が名勝「蘭亭」に名士40名余りを招いて酒宴を開催した際、その宴で作られた詩を編んだ詩集「蘭亭集」の法帖に揮毫した序文で、古来、王義之の(ということはすなわち書道史上の)最高傑作とされる。子孫に伝わった真跡を唐の太宗皇帝が、苦心惨憺の末入手し偏愛した挙句、崩御に際して殉葬させたため、今日では何系統かの拓本とその断片しか伝わっていないのだが、こうして何通りもの拓本を前にして、門外漢の私でも、その書の端正で的確な美しさと後世への影響力の大きさを実感できた。隣のコーナーの特集展示「花鳥」も、蘭亭の宴を彷彿させて、よかった。
西洋美術館の「ウルビーノのビーナス」展は、閉館間際に入ったので時間があまりなかったが、観客もすでにまばらになっており、落ち着いて見ることができた。「ウルビーノのビーナス」や「キューピッド、犬、ウズラを伴うビーナス」などのビーナスの群れ。さらに「ビーナスとアドニス」「パリスの審判」など、いろいろな主題の絵が盛りだくさん。神話から裸体そのものへと、描かれる主題(興味の対象)が次第に絞られていき、さらにヴィーナスのポーズや描かれたシチュエーションに凝るようになっていくところも面白い。プリニウスの「博物誌」やキケロの「友人宛書簡」、さらには「天球について」などの羊皮紙の本も出品されており、これも見事だった(背が痛まないかと心配になったが)。大満足で会場を後にする。
その後、神保町に回り、T書店で居合わせた常連さん3人も交え、しばらく話し込む。ちょうどラジオでは巨人が先取点を挙げた場面を放送しており、店主もごきげんだ。入学金を持参しなかったからと言って、2名の新入生が別室で待機させられたという千葉県の入学式の話になって、店主と私は「疑問に思う」と、(珍しく?)意見が一致したが、2名の常連さんが「入学金を持ってこない方が悪い。別室待機は当然だ」と言うので驚いた。「教育的配慮」という言葉はもはや死語となったか。先週いただいた宿題を何とか仕上げてきたので、ころあいを見計らって提出。一目見るなり店主が「いいところを狙ってくるね」との感想。仕入れたばかりという「瑛九とその周辺」展図録(細江英公のサイン入り)をいただいて店を出る。さくら通りの洋食屋Gで夕食にして帰宅。