立方体はブドウ酒の味がする

4月11日(金)、午後から恵比寿の写真美術館の図書室に行き、発表に備えて調べ物(だが肝心の資料が使用中となっており、また出直さなくてはいけない。トホホ)。その後、六本木に出て、富士ゼロックス・アートスペースで開催されている戸村浩展を見る。この日は作家自らが自作について語るイベントがあるのだ。
実は当初、戸村浩という人は「トポロジー」を研究する、ルネ・トムなどに近い数学者だと思っていた。というのもその昔、理科系志望の学生だった頃、遠山啓の『無限と連続』を愛読していた時期があり、「数学セミナー」(編集顧問は遠山啓・矢野健太郎)も確か一年ほど購読したことがあるが、戸村さんのことを知ったのはこの雑誌からだったのだ。その頃、この雑誌にコラムを連載されていた。(後に単行本『基本形態の構造 ― 立方体はブドウ酒の味がする』にまとめられた。この連載も、遠山啓がその正多面体の作品を見て激賞したことがきっかけだったようだ。)
ところが後年、瀧口修造の文章に親しむようになってから、『三夢三話』の三番目の夢の中に、その名前が造形作家として登場していることに気が付き、びっくりしたものだ(注)。
正面の壁面に展示されている虹色の色彩が鮮烈な魔方陣のカラーチャートなど、一見、平面や立体による幾何学的・色彩的なデザインに過ぎないように見えるかもしれないが、背後の直感の深さと数学的思考の緻密さは、ほとんどデュシャンを思わせる。"Moving Dimension"と名付けられた、回転運動によりイメージを出現させる小さな装置などは、運動と次元の問題を併せて顕在化する点で、デュシャンの「回転半球」や「ロトレリーフ」をさらに展開したものだろう。
多面体として立体的に展開できるプラスティック製の平面尺(色彩のグラデーションが見事だ)は、いわばポータブルな立体であり、これも平面から立体へという次元の問題を作品化したものともいえる。そこに遊び心がある点がムナーリに極めて近い。すでに1960年代に今日のルービック・キューブと全く同じ仕組みの立体を考案・制作されていたのだ。(コーヒーかアルコールでも飲みながらこういう作品に触れることができたら、時の経つのも忘れてしまうだろう。そんなカフェかギャラリーが、どこかにないものだろうか。エディション15部ではそんな贅沢なことは無理か・・・)
フランク・ザッパの音楽に合わせて、トランクから取り出した自らの作品を自由自在に操り(トランクで運ぶところもデュシャンを想起させる)、その背後の思考について語る戸村さんは、実に楽しそうにしておられ、それが自ずとこちらにも伝わってきた。優れたパフォーマーでもいらっしゃるようだ。帰りの電車の中でカタログ・テキストを読みながら、楽しさを味わい返した。そのデザインと同様、文章も緻密で深く、しかもユーモアも感じられる素晴らしいものだが、特に幼き頃から現在にいたる回想は、エピソードの一つ一つが今日の造形作品とのつながりを感じさせ、一つの見事な散文詩となっている。数学者、造形作家、パフォーマーに加え、詩人の側面も〈再〉発見した晩だった。


注)瀧口修造のその夢は、要約するとこんな内容だ。
戸村ご夫妻から子供の名付け親になるように依頼されて、まだ生れる前で性別も判らないというのに、男の子でも女の子でも似合う「虹」という名前を案出し、先走って(ゴッホが描いたオヴェールの役場を想わせる)役場まで登録しに出かけた。ところが戸籍係の役人は「この漢字は人名漢字表に含まれていないので駄目だ。それにそもそも虹という漢字は古代中国では雄のニジに使ったのであり、雌には別の漢字がある」などと言って、頑として受け付けない。どうにも困っていたところ、見かねた役人から助け舟が出て、「近くの谷から石を一つ取ってきたら何とかしましょう」と言う。相応しい石が見つかる予感がし、勇んで深い谷に降りていった。気がつくとそこは「賽の河原」を思わせる場所で、ところどころに石も積み上げてある。これから子供が生れるというのに縁起でもないのだが、その石には子供の誕生石のようなものも含まれているらしく、特に不吉さは感じない。むしろ子供の生と死のすべてがあるという、御伽噺めいたほのぼのとした雰囲気が漂っている。ふと足元の小石を拾い上げ、その石を太陽に透かして見ると、指先に見事な虹が出現した。それは虹の石、石の虹だったのだ・・・



4月12日(土)、午後から神保町に行き、宿題の解答を提出するつもりだったが、昼過ぎに知人から「すぐ近くまで来ている」との電話があり、急遽会うことになった。新聞のこと、テレビのこと、語学のことなどを話しながらコーヒーを飲み、何種類かのアイスクリームを賞味した。お土産に珍しいネパール産のコーヒーをいただいた。手持ちの豆を早く飲み終えて、試してみたい。