光の結晶

selavy2008-09-08

9月7日(日)。午前中に家を出て、横須賀美術館「ライオネル・ファイニンガー 光の結晶」展に行く。初期の新聞連載漫画・風刺画から、油彩、水彩、版画、素描、木製玩具まで130点ほどの展示で、国内では初めての本格的な回顧展だそうだ。
美術館に着いて、まず屋上テラスに隣接している森の公園に行き、簡易テント下の日陰に入って、海を眺めながら、サンドイッチとコーヒーを頂く。テーブルの下では、黒い毛並みのスリムなトラ猫が昼寝をしていたので、コーヒーのミルク、ハムの切れ端などを分け、ともに昼食を楽しんだ。食後、一階に降りると、受付の前に知り合いの学芸員さんが立っていた。ご挨拶し、少し立ち話をしてから、会場へ。
ファイニンガーといえば、上掲図(1927年の《街にそびえる教会》)のとおり、フランスのR.ドローネーかジャック・ヴィヨンのような、透明な色彩による幾何学的構成の風景画(?)を想い浮かべ、バウハウスの(あまり目立たない)教授で、カンディンスキー、クレー、ヤウレンスキーとともに美術グループ「青の4人」を結成した、(確かドイツ人の)画家という程度の予備知識だったが、これが間違いだった。
実はドイツ出身の両親(ともに音楽家)のもとに1871年アメリカで生まれた人だった。といっても、16歳のときにドイツに渡り、以降、ナチスから逃れて1937年に帰米するまでの半世紀をドイツ・欧州で過ごし、西欧の文化に対する敬意を生涯持ち続けたのだから、主な活動の拠点はドイツだったとは言えるだろう(もっとも、帰米後1956年になくなるまでの約20年間は、米国で活動しているわけだが)。第一次大戦中には敵国人として拘束され、釈放後も一日二回の警察に出頭することを義務付けられるなど、極めて不本意で不自由な生活を経験したらしい。
1919年にワルター・グロピウスバウハウスを創設した際には、まず最初に教授として招聘したのは、(カンディンスキーでもクレーでもなく)ファイニンガーだったそうだ。実際、「バウハウス設立要綱」の表紙を飾ったのは、ファイニンガーによる大聖堂の木版画(を原画とする亜鉛版の平版印刷)だったのだ。前田教授(後出)によれば、近年の研究では「カンディンスキーやクレーに大きな影響を及ぼしていた」という見解が有力となっているそうだ。
展示は、街中の人物を描いた初期の風刺画や連載漫画なども面白かったが、やはりキュビスムが視野に入ってきた後の、建築画・風景画が素晴らしかった。特に教会から注文を受けて描かれた「ハレ大聖堂」の建築画の連作や、バルト海の風景画は、「光の結晶」というキャッチフレーズがまさにふさわしく思えた。(名古屋、宮城にも巡回するようなので、そちら方面の方にも是非お勧めします)
午後2時からは、クレー研究者として国際的に著名な、慶応義塾大学の前田富士男教授による記念講演「プリズムとしての建築/絵画 ― ファイニンガーとともに」も開催された。もちろん、聴講した。ドイツと欧州全体の地理的な鳥瞰、宗教的背景、世紀末から20世紀前半の政治情勢まで視野に入れ、キュビスムバウハウスなどの美術・建築上の流れを押さえた上で、そこにおけるファイニンガーのきわめて特異で重要な(中間的な)位置づけを解明した、内容の深い講演だった。
質疑応答にも時間が割かれたので、思い切って手を上げ、「初期からたびたび出現している橋梁のモチーフは、どう考えたらよいでしょう?」と質問したら、「それはなかなか難しくて、まだ定説・解答が出ていないのです。ナチスの台頭後ならば、橋梁はしばしば反ナチスという意味合いを込めて描かれるモチーフなのですが、ファイニンガーの場合はそれ以前から描いているのですから・・・。ことによると、彼が好んで読んでいたボードレールバルザックユゴー、シューあたりの文学に源泉があるのかもしれません」とのこと。
休日なので閉館時間が夜の7時だったのは、とても有難かった。講演会後も、再び会場をゆっくりひと巡りすることができ、さらに地下の日本美術の常設展示を見る時間まであった。充実した半日を過ごし、夕方、美術館を出た。昼間はあれほど晴れていたのに、にわかに雲行きが怪しくなり、激しい雷雨となった。折りたたみ傘を持参していてよかった。