隠れて、生きよ2

昨日の日記の「隠れて、生きよ」に触れた高橋悠治の文章が気になったので、夕方帰ってから本棚を探すと、彼の本が何冊か出てきた。

目次をパラパラめくると、これは『ロベルト・シューマン』に収録された「シカがつらなりゆくように」の章の中の一節のタイトルとして使われていたとわかった。その内容は、まさに「隠れて、生きよ」を現代に当てはめたような文章だった。

「かくれて生きよ
まず、あきることだ。あきるからあたらしいものになり変る。(…)
自立の道をえらんだとしても、きみに起るのはせいぜい、イノチがなくなるか、牢屋にはいるか、離婚されるか、職をうしなうか、コジキになるかでしかないだろう。大きなくるしみはながくつづかず、ながくつづくくるしみはたいしたことはない。では、出発だ。」

てっきり『音楽のおしえ』か『ことばをもって音をたちきれ』の中の、クセナキスを論じた個所に引用されていたと思っていたのだが、そこにはソクラテスの教えとして「ためされない人生は、生きるにあたいしない」という言葉が置かれていた。
いや、記憶はあてにならないものだ。

『音楽のおしえ』なら印象に残っている。特にその中の「小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」などはかなりの衝撃だった(思わず快哉を叫んだ)が、『ロベルト・シューマン』はそれほどでもない。この一節だって、読んだのはもう25年以上も前のことだし、読んだことも忘れていた。

それでも、一昨日・昨日のように、何となく思い出すくらいだから、この「かくれて生きよ」という言葉だけは、意外と心の奥深いところに留まっていたのかもしれない。

「出発は遅くとも夜明けに」(瀧口修造「星と砂と」)
「目覚めたときは、真昼だった」(A.ランボー「夜明け」)