「見えない本」と「見える本」

イタリアに留学している知り合いが、「瀧口修造 夢の漂流物」展を観ることが出来ず、「せめて図録だけでも…」というリクエストだったので、4月に発送したところ、約1月半かかって到着し、「お礼に」と、B.ムナーリの『見えない本』を送ってくれた。

Fa parte di un gruppo du libri definiti 《illeggibili》 perche
non hanno parole da leggere, ma hanno una storia visiva che si puo capire seguendo il filo del discorso visivo.
(この本は読むべき言葉がないために《読めない》と定義された本のうちの一冊です。しかしこれらの本は、一筋の目に見えるお話に従うことで理解できる、目に見える物語を持っているのです。)(友人の試訳)

ムナーリは、瀧口修造にとって理想のデザイナー、アーティストだったようで、確かムナーリ自身から、この『見えない本』を贈ってもらっていたはずだ。

そういえば瀧口には『見える本』というオブジェ本があった。これは言葉が書いてない、大きめの黒い紙を単に二つ折りにしただけの「本」。ただし、両方の頁に焼け焦がした穴が穿ってあるので、二宮金次郎のように顔の前でひろげると、向こう側が「見える」という本だ。(瀧口自身がそうやってひろげている写真が残されている)

改めてムナーリの『見えない本』を見ると、瀧口の『見える本』は、名前からして『見えない本』を踏まえた上でのものだろうし、言葉が書いてないのに、何か物語や筋立てがあるように思えるところも、共通している。やはりムナーリとの交流の産物と見るのがいいようだ。

この友人は、ヴェニスビエンナーレの感想なども伝えてくれたのだが、長くなるので、これはまたの機会に。