猥褻、何が悪い!

これは確か大島渚の言葉だったはずだ。この言葉について瀧口修造が、「聞きましたか? <猥褻、何が悪い!> 素晴らしい言葉ですね」と賞賛していたという話を、どこかで読んだ記憶がある。

造形芸術に関して信頼できる眼をもった知り合いが、西洋美術館の「ロダンとカリエール」展を絶賛していたので、是非とも観なくてはと、同好の士を誘って出かける。

ロダンとカリエールの肖像が掲げられた第一室を経て第二室入ると、いきなり脚を大きく広げた「イリス」像の彫刻が眼に入る。性器を露に晒した姿は、もちろんクールベの「世界の起源」に触発されたものだろうが、こちらの方が圧倒的に誇らしげだ。

「罪」は男女交合像のように思われるが、女性の背中に付けられた突起は「サチュロスの印である翼だ」と解説されている。 「目覚め」は美しい女性像だが、脚部を支え、さらに股間を覆い隠すように盛り上げられた台座の延長部は、明らかに象徴化された男性で、交合像と同趣旨のものだろう。

こうした一連の作品は、上品に言えば、エロスに関する芸術的な探究の姿勢が表れたものだろうが、はっきり言うと、「エロこそ自分の芸術の元だ!」という気概、さらには「エロで何が悪いか!」という開き直りのようなものも感じられた。いやそれどころか、「芸術か否か」などは、もはやどうでもよかったのかもしれない。

最後の部屋にさりげなく展示されていた「虹」も、ロダンが数多く遺したエロ・ドローイングの一枚。扇情的な線や淡く施された色彩が美しい。ベルメールに先駆する仕事といえるかもしれない。まあ、この種のロダンのドローイングには、もっと実際的な目的もあったようだが。