肉体の叛乱

selavy2008-07-23

7月22日(火)。午後から外出。三田の慶応義塾大学東館展示スペースで「1968年 肉体の叛乱とその時代」を観る。同大学アート・センター所蔵資料の展示で、この年の10月に上演された土方巽「肉体の叛乱」(右図)を中心とし、併せて同年の瀧口修造油井正一イサムノグチの活動も紹介するもの。会場の一番奥の部屋では「肉体の叛乱」の記録フィルムなど3本が上映され、改めて土方巽の肉体の存在感の片鱗に触れることができる。奥の椅子に某近代美術館の学芸員Oさんが座っておられたので、フィルムが換わる合間に小声でご挨拶する。
1968年は、瀧口修造に関していうと『マルセル・デュシャン語録』と『シュルレアリスムのために』が刊行された年に当たっている。同年7月に開催された、『語録』のお披露目兼デュシャンの誕生会の案内状や、献呈された澁澤龍彦からのお礼状、その他68年にオンカワラや荒川修作などから送られてきた書簡などが展示されており、それなりに興味深く拝見できた。
といっても、もともとこの4人の活動には、相互の関連性はあまりないのだから(瀧口と土方、瀧口とノグチは接点があったが)、ひとつの展示で一括して取り上げるというのは、なかなか難しいようだ。この4人を横断するテーマとしては、「時代」くらいしかないのだろうが、それにしては4人に関する展示によって1968年という「時代」が掘り下げられていたようには、残念ながら見えなかった。
地下鉄で神保町に出て、「ギャラリーかわまつ」に寄る。確かゾンネンシュターン展が開催されているはずだったが、会期は先週までだったようで、2階に上がるとすでに撤収に入っているところだった。ただ、こちらが見にきたとわかると、スタッフの方が作品を戻して丁寧に説明してくれた。この作家は印刷にもサインをしたようだ。印刷でも一目でゾンネンシュターンとわかる独特の図柄は変わらないといえば変わらないのだが、もしろん作品自体の質は版画の水準には届かない。その分、値段が安くなって買い易いともいえるが、どう考えるかは難しい問題だろう。
部屋の片隅には三沢厚彦の「DOG 2001−2005」(犬の実物大の木彫)が佇んでいた。「いくらですか?」と訊くと「○○○円です」とのこと。こちらは対照的に1点1点作家が彫って制作するのだから、そのくらいして当然ともいえるだろう。なかなか心惹かれる作品だ。
近くの古書店BダイバーとN書店を覗いてから、神保町交差点まで戻って某T書店に行く。ちょうど買い取りのお客さん(たぶん常連さんの一人)が居て、出されたお茶を美味しそうに飲みながら、査定を待っているところだった。持ってきたのは文学書、辞書、語学書が中心で、その中に系統の異なる文学者の大部の著作集1冊が入っていたようだ。「これは枕ですか?」「そうなんです。結局読まず仕舞いで・・・」などと軽口を交わしている。
そのお客さんの会社の残業の状態や、過労死に話題が移ったあたりで査定が終了。「これだと○○円だなあ」「ああ、それなら十分ですよ」と簡単に話がまとまった。伝票にサインすると「じゃあ、またよろしくおねがいします」と言って帰って行った。お互いわかった者同士だと、決まるのも早いものだ(それでも、お金が関わることだから、本を持ち込んでいる側に多少の不満が残るのは仕方ない)。
店主に今度の金曜日が締め切りの抽籤について、応募状況について教えてもらう。今回もなかなか粒よりの詩集などが並んでいて、先立つものさえあれば全部エントリーしたいところだが、このところの厳しい経済状況では、見送らざるを得ない。残念至極だ。
と、ため息をついているところへ、常連の近代詩集コレクターAさんと、W大学で教鞭をとっているIさんが来た。早速、お互い同士の、またこの場にいない他の常連さんの、エントリー内容や優先順位などの情報戦が始まった。といっても、こちらはエントリーするとしても前回同様せいぜい1〜2点なので、あまり他人のことが気にならない。コレクションであれ、仕事であれ、人生であれ、何事もリタイアして、外野から野次馬的に覗く立場になると、気が楽になるものだ。
酸っぱい葡萄を食べたくなっても困るので、早々に失礼することにする。この日は荷物を抱えており、「電車が混まないうちに帰らなくては」と、そのままJRで自宅近くの駅まで戻る。駅前のトンカツ屋さんで遅めの夕食にして帰宅。