セザンヌ主義など

selavy2008-11-23

11月14日(金)、横浜美術館の「セザンヌ主義―父と呼ばれる画家への礼賛」展のオープニング・レセプションに、知り合いのMさんとともに出席。「セザンヌ主義」というタイトルは、少し踏み込みすぎだと思うが、セザンヌが多くの画家から敬愛された事情を何か一言で(つまりキャッチ・フレーズにして)言い現そうとしたということはわかる。展示の内容はかなり濃いので、期間中、また何度か足を運びたい。

11月18日(火)、午後から、来月初旬に予定されている某研究会での発表の下調べのために、駒場日本近代文学館へ。稀覯雑誌をいくつか閲覧し、コピーしてもらう。この館はコピー代が1枚100円もするので、必要記事と目次・奥付をたのむとあっという間に○千円ということになる。これなら結局F書房の目録に掲載されたときに買っておいた方が、安上がりだということになる。決して安いとは思わないけれど。
調べ物を終え、ついでに同館で開催されていた「志賀直哉をめぐる人々」展を見る。白樺派の面々や木下利玄などの自筆絵葉書が面白かった。有島生馬や岸田劉生は当たり前だが、文学者たちの絵もなかなか上手いのには驚いた。誰の葉書だったか、ダンテとベアトリーチェなど、西洋文学史上の恋人同士を何組も相合傘にし、裏面いっぱいに悪戯書きした葉書も面白かった。小林多喜二に1コーナー当てられていたのも、時節柄か。
夏目漱石の直哉宛大正3年の手紙を見ることができたのも、よかった。朝日新聞への連載小説の執筆を依頼した手紙らしく、白い巻紙に毛筆で記された美しい手紙だった。実はこの年、当時11歳の少年だった瀧口修造漱石から手紙をもらっているのだ。といっても修造から出した手紙への返信なのだが、「文学少年を叱責して、まじめに学校の勉学にはげみなさいときびしく諭した手紙だった」そうだが(瀧口「自筆年譜」による)、戦災で他の貴重な資料とともに失われた。きっとその手紙もこういう美しい手紙だったのだろう。
帰り道、渋谷に出て、ポスター・ハリス・ギャラリーで野中ユリ展を見る。ケバケバしい通りをギャラリーに向かって歩いていると、ちょうどギャラリーが入居している建物から、この展覧会の仕掛け人で、以前アートスペース美蕾樹を経営していた生越さんが出てきた。お目にかかるのはずいぶん久しぶりだ。ラブホテル街の真ん中で少し立ち話。「約束があるので、行かなきゃいけないけど、ゆっくり見て行って。Sさんも来ているわよ」とのこと。「どのSさんだろう?」と思いながらギャラリーの扉を開けると、中に居たのは某出版社の編集者Sさんだった。Sさんとも少し立ち話。
野中さんの1970〜80年代のデカルコマニーやコラージュの繊細さには、心を打たれる。新作の箱のオブジェも2点展示されていた。展示リストに売約済みの表示が付いている黒いデカルコマニー4点が見当たらないので、もう展示されていないのかとギャラリーの人に訊くと、中から出して見せてくれた。これもなかなかよかった。近くの店でフランス・パンを買い込んで帰宅。