平塚の一日

selavy2008-11-05

11月3日(月)、昼前に出掛けて速水御舟展が開催されている平塚へ。ちょうど昼頃に平塚に到着したので、まずはインターネットで目星をつけていた鰻屋で腹ごしらえ。
時間つなぎと思い、ビールと肝焼きを注文する。(ビールは大嫌いな「何とかドライ」という銘柄しか置いていなかったので、ノンアルコールのビール。)肝焼きも比較的早く出てきたのはよいが、一口食べると冷たかった。店員(アルバイトの男の子?)に文句を言うと、愛想よく「作り直してきます」といって下げ、しばらくして替わりの肝焼きを持ってきたが、今度は周りが黒々と焦げている。ほとほと嫌気が差してきたが、いまさらキャンセルもできない。仕方がないので、鰻重を待つ。
やがて「お待ちどうさま」と運ばれてきたが、案の定、一口食べてがっかり。ご飯が少し詰め込まれ過ぎて、ふっくらした感じがなく、押し寿司にも使えそうな塩梅。たぶんもう行くことはないだろう。


気を取り直して、御舟展へ。山種美術館所蔵の有名な作品(重要美術品に指定された「炎舞」「名樹散椿」)は出品されていなかったが、10代の頃から早すぎた晩年まで、100点にも及ぶ作品・下絵などが展示されており、中には新発見の作品や何十年ぶりかで出現した作品なども含まれている。この画家の独特の秩序を持った画面に構成する絵心(?)や細密描写の凄さを堪能した。
特に「京の舞妓」(上図)は畳の目、着物、舞妓さんの瞳に映った室内の情景に至るまで、細密な描写に驚嘆! 院展に出品されたこの作品を見た横山大観が「除名だ!」と激怒したそうだが、アンバランスな構図といい美化をせず敢えてリアルに描かれたモデルの姿といい、大観の怒りも判らないでもない。マネの「オランピア」や「草上の昼食」を見た批評家が怒ったのと同じことかもしれない。
第二室に展示された「北野天神縁起絵巻」の模写も凄かった。歴史画家松本楓湖の画塾に通っていた頃(10代後半)の模写で、細密な筆といい構成への意志といい、すでに御舟のエッセンスが凝縮されて現れているようにも思われた。
2時から学芸員さんのレクチャーを聴き、終了後、レクチャー室の外で質問の順番を待っていたら、ちょうど京王線沿線にある某美術館の館長Mさんが通りかかったので、少し立ち話。Y画伯や先頃亡くなった某画廊オーナー氏とその遺族などに話が及ぶ。「やはりあれは詐欺師だった」と見方が一致した。
その間に質問者も減り、順番が回ってきた。
「展示されていた女二図は、落款印は押されているのに署名がないのは何故ですか?」「再興院展への出品作で、出品のときからあの状態なんです。御舟は、作品の売却などの、手許を放れるときに署名を入れていたようです」
「肌の色が一部で黒ずんでいるのはなぜですか?」「あれはチタンの入った白い顔料を試しに使ったらしいんです。後で変色してきたのです。平野晴景の雲もおなじように黒くなってしまったのですよ」
「所蔵家の□□□□はどういう組織なのですか?」「名古屋近くの個人コレクターの方で、今回20点ほどお借りしましたが、もっとお持ちのようです。御舟のアトリエの移築まで考えておられるようで、頭が下がります。移築後はそんなに簡単にお借りできなくなるでしょう。それに立地上、観覧にも制限が出てくるようです」とのこと。
再び会場に入り、一回り。ショップで図録と(珍しく)絵葉書を買い込んだ。個人的には「丘の並木」という小品(夕暮れが近づき緑色に変わり始めた空を背景にに木々の小枝が細密に描かれた作品)に惹かれていたが、残念ながらこの作品は絵葉書にされていないようだった。
4時を過ぎに美術館を出た。すでに風が冷たくなり始めていた。鰻以外は大満足の一日。

古本日和・工芸日和

selavy2008-11-03

10月31日(金)、夕方から神保町に出掛け、「神田古本祭り」を楽しむ。古書会館の即売会場もいつもよりはるかに人手が多い。某書店の棚で見つけた新刊雑誌には、渋谷にあった「アートスペース美蕾樹」の20年以上に及ぶ活動暦が掲載されていたので、早速購入した。この画廊、しばらく顔を出していない間に閉じてしまったようだが、改めてこの記事で活動を振り返ると、大きな足跡を残したと実感される(オーナー生越さんのさらなるご活躍を祈りたい)。
その後、某T書店に行く。常連のTさんもいらっしゃったので、ご挨拶する。店主は、この日の市で落札したばかりという、野口英世の文献などを見せてくれた。野口の署名入りの肖像写真や名刺なども含まれており、野口自身が献呈した文献類らしかった。
原宿に回り、駅前の中華料理屋で開催された元の組織関係の会合に顔を出す。20年も続いている会で、私以外は皆60歳代後半に入ったが、皆、当時と全く変わらず意気軒昂で、志が高ければいつまでも若いという見本だ。料理も美味で充ち足りた夜だった。


11月1日(土)、再び神保町の「神田古本祭り」へ。御茶ノ水から古書会館に向かい、昨日買おうか迷った文献を探すと、幸い残っていた。今日は迷わず購入、ホクホク顔で古書会館を後にする。昼食は某M翁の手打ち蕎麦で、と思っていたが、最近ベルギービールの店の隣に出来たうどん屋の前に、10Mくらいの行列が出来ていたので、気が変わり(珍しく)行列に並ぶ。かなり客の回転が速いようで、5分ほどで座れた。メニューを見て地鶏の天ぷらを頼んだら、「売り切れました」という。それなら野菜の天ぷらは、と訊くと、これも売り切れ。天ぷらは諦めて、とろろと卵を注文する。熱々でなかなか美味だった。(和製カルボナーラ? 薬味は胡椒ではなく七味だが)。何より安いのがよかった。
この日は陽射しの暖かい、古本日和となった。食後、某T書店に寄ると、店主ではなく奥さんが居た。奥さんの視線を追って、左手を見ると、珍しいことに水場を仕切った暖簾の陰で店主が弁当を食べていた。思わず「まさに『隠れて生きよ』ですね」などと軽口が出てしまった。表に食べに行く時間もないほど忙しいのだそうだ。実際、日本シリーズのことなどを話している間も、お客がひっきりなしに来る。結構なことだ。話を適当に切り上げ、(エピクロスではなく)プラトンの研究書などを求めてから、店を後にした。
靖国通りの歩道には人が溢れ(上の写真は昨年の光景)、各書店のワゴンを覗くのもままならない感じだ。古本祭りに見切りをつけることにし、抜けるような青空に誘われて、一ツ橋方面へと歩き始めた。平川門を通って皇居内に入り、三の丸まで横断。三の丸尚蔵館の「帝室技芸員とパリ万国博」展の第三期を見る。並河靖之「四季花鳥図花瓶」、濤川惣助「墨画月夜深林図額」海野勝除ナ「太平楽置物」飯田新七「四季草花図刺繍屏風」などなど、工芸技術の粋を尽くした逸品を堪能。(入館して間もなく、「閉館します」との声が聞こえて来て驚いたが、ここの閉館時間は4時だった。)さらに東京駅まで歩き、JRで帰宅。

瀧口日和

selavy2008-11-02

10月30日(木)、米国から一時帰国された空閑俊憲さんと、そのお友達の民子さんと、三人で昼食(前の晩に電話があり、急遽お目にかかることになったもの)。空閑さんは晩年の瀧口修造の書斎に頻繁に通っていたアーティストで、岡崎和郎作品集の編集・制作者でもある。その後、渡米し、今は現地で活動している方だ。チベットの音楽家とCDを出すほどチベット文化・音楽への造詣も深い。今回もダライ・ラマの来日の際、御前で演奏するのだそうだ。
お二人とは初対面なのだが、すぐに意気投合。食後、喫茶店に場所を変えたが、瀧口修造の想い出など、いつまでも話しが尽きない感じだ。途中で浜松町の横田茂ギャラリーに移動、すでに来週からのアルマンド展の展示が整えられており、拝見する。
過去の展覧会のカタログ(特にジョゼフ・コーネル展など)を見せていただきながら、コーヒーを頂いた。やがて外出中だった横田さんも帰って来られ、岡崎和郎さんのことや、画廊活動のことなどに話は移った。ドイツ人の写真家ジェルメーヌ・クルルの「メタル」の復刻版などを見せていただく(後で調べたら、女流写真家だった。吃驚!)。6時近くに画廊を後にする。
この後、私はワタリウム美術館に行くことになっていたので、空閑さん、民子さんと一緒に有楽町駅前のMUJIのイートイン・デリで軽く夕食。空閑さんはNYにあるMUJIと比較し、興味深そうにされていた。ここで二人とお別れし、青山に向かった。
ワタリウム美術館吉増剛造氏のレクチャー「瀧口修造の<奇跡の写真>の跡と、その跡、―」を聴講。数年前、慶応義塾大学日吉校舎のホールに、瀧口修造が1958年に欧州を旅行した際の写真・資料が展示されたことがあるが(ご遺族から同大学に寄贈された資料の一部で、同大学アートセンターのスタッフが発掘・整理・編集したもの)、その際にデジタル化された旅行の写真をプロジェクターでスライド・ショーしながら、吉増さんがコメントを朗読するというもの。
吉増さんが入手されていたのは整理・編集する前の状態のものらしく(旅の時間・場所がランダムに再生される)、当時アートセンターのスタッフで今は鎌倉の美術館の学芸員をしているAさんが、撮影場所や被写体などの情報を適宜補足する形だった。
「前に出て行くのでなく、後ろに引いている感じ」「視線が下を向き、地面の方を見ている」など、ご自身も映像を手がけている吉増さんならではの鋭い指摘。瀧口修造の写真というものを考える契機を頂いたようだ。後半の吉増さんご自身の写真・映像を含めて、とても楽しめた。開催されている同美術館のコレクション展には瀧口修造のデカルコマニーも4点展示されていた(上図)。
会場には知り合いが多く、先日富山で会ったばかりの方もわざわざ聴きに来ておられた。実はこの会のことは、その方から教えていただいたものだったのだ。来場されていたアートセンターの先生方にもご挨拶申し上げた。
朝から晩まで、瀧口・瀧口で過ごした「瀧口日和」の一日となった。

大琳派展など

selavy2008-10-26

10月21日(火)、旅行から帰ったばかりだが、上野の国立博物館「大琳派展」を見に行く。知り合いの女性2名と前から約束していたのだ。
会場に入るとまず、光琳風神雷神図屏風」、抱一「風神雷神図屏風」、其一「風神雷神図襖」が展示されていた(宗達風神雷神図屏風は後期に展示されるそうだ)。続いて光悦・宗達の部に入る。宗達「蓮池水禽図」「月に秋草図屏風」などが展示されていたが、個人的には水墨画や屏風絵などが、もう少し多くてもよかった気がする。それでも宗達下絵・光悦筆の数々の巻物・断簡などは素晴らしかった。
光琳・乾山の部では光琳の「波涛図」が里帰りして展示されていた。実物はなかなか見る機会がないので、しっかり目に焼き付けた。乾山の「立葵図屏風」「梅・撫子・萩・雪図屏風」なども珍しいものだ。光琳に関する重要な文献である「小西家旧蔵資料」や、抱一編「光琳百図」はなかなか興味深かった。抱一・其一の部も粒が揃って充実していたが、このあたりまで来ると疲れてしまい、緊張感が続かない。
宗達風神雷神図屏風」は後期の展示、光琳「燕子花図屏風」はすでに展示が終了しており、展示の端境期に当たってしまった印象は否めないが、両者とも代表作なので、また見る機会はあるだろう。)
光琳生誕350周年記念なのだから、光琳・乾山に絞って、「紅梅白梅図屏風」「燕子花図屏風」「八橋図屏風」「孔雀立葵図屏風」「槇楓図屏風」「竹梅図屏風」などを一挙に見ることができれば最高だったが、各美術館の目玉になっている作品ばかりだから、こういう展覧会は夢のまた夢なのだろう。
その後、JRで水道橋に行き、某M翁の二色天ザルで昼食にする。女性2名は初めて来たそうで、喜んでいただいた。ここでお開きにし、私だけ神保町まで歩き、某T書店を覗く。店主は仕入れに出掛けて留守。奥さんが居たので、しばらく名古屋・富山旅行などの話。お茶をいただいて帰宅。

10月24日(金)、夕方から早稲田大学で開催されたシンポジウム「シュルレアリスム的視覚体験とは何か―フレーム、イメージ、キャラクター」を聴く。鈴木雅雄(早稲田大学教授)がコーディネーターを務め、パネリストに塚本昌則(東京大学准教授)、齊藤哲也(山形大学専任講師)を迎えるもの。この春、東京都写真美術館で開催された大規模な写真展の際のシンポジウム(およびこれを活字化した「水声通信」25号の特集「シュルレアリスム美術はいかにして可能か」)を受けた企画だ。
塚本・斉藤両先生の発表はそれぞれ緻密で、内容がぎっしりなのはわかるが、私のようなレベルでは論理に着いていくのが難しい。鈴木先生の講演は主にブローネルとエルンストのスライドを使い、「シュルレアリスム絵画」の分析概念として導入しようとされている「図、キャラクター」の概念について説明するもの。こちらの発表もその深い意味合いを理解できたとはとても言えないだろうが、スライドの図版自体が興味深く、楽しく聴くことができた。
その後、発表者3名(と会場の聴講者)によるディスカッション。分析のために新しい概念装置を持ち込み確立しようとする際は、このような相互に共通点や対立点のある、いろいろな見方を擦り合わせる過程が不可欠なのだろう。そういう現場に立ち会え、その熱気を感じることができたのが、最大の収穫だ。この熱気を共有し、さらに煽るようなことができればいいのだが。
シンポジウム終了後、出席者・学生合わせて20名ほどで近くの料理屋に行く。岩手地鶏の水炊きなどを囲み、ビールを飲みながら歓談。久しぶりに酔っぱらって、足元がふらつき、気がつかないうちに日付変更線を跨いでしまった。

富山から東京へ

selavy2008-10-23

10月19日(日)、朝、ホテルを出て富山駅からJRで隣の呉羽駅へ。駅から12〜13分ほど歩いて、大塚という集落を訪ねる。ここの龍江寺というお寺に、瀧口修造のお墓があるのだ。お参りをするときにはいつも、瀧口の生家の跡地にあるスーパーで生花を買い、表の自動販売機でタバコを買うことにしていたのだが、今回訪ねてみると、スーパーはすでに取り壊され、跡地が整地されて5区画に分けられていた。お供えは、お寺の近くの生垣から頂いたピンクの薔薇一輪となってしまった。「Rrose Selavy」と裏に彫られた墓石に水を掛けたり、雑草をむしりったりして、しばらく佇んだ。

呉羽駅まで引き返し(日光が正面から指して眩しく、また暑かった)、再びJRで富山に戻る。昼食を近代美術館の喫茶コーナーで食べることにして、バスに乗り、10分ほどで美術館に到着。ちょうど企画展の狭間の時期に当たり、喫茶室は開いていなかった。仕方ないので近くのコンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買い、美術館のロビーで頂く。その後、常設を見ることにする。ここの「近代美術の流れ」の常設展はなかなか粒がそろっている。また瀧口修造コーナーの常設もあり(写真上掲)、ちょうどデュシャンから命名されて贈られてきた「Rrose Selavy」のサインを凸版に起した銅製のプレートなどが展示されていた。

その後、近くの某所で開催された研究会に出席。今回は『シュルレアリスムの哲学』の翻訳者である内田洋先生による「『瀧口修造の詩的実験』を読む」という発表。出席者は20〜25人ほどで、若い人の姿も見かけた。活発な(鋭い)質問も出て、いろいろ示唆を受けた。
発表後、有志10人ほどで懇親会。会場は出席者の中の一人が市内で営んでいる喫茶店で、天井が高く、壁にはサム・フランシスの版画が掛けられ、入り口脇の書棚にはオーナーが訪れた全国各地の展覧会のカタログなどが収蔵されている。実にシックで、しかも居心地のよさそうな空間だった。3時間ほどでお開きに。高速バスで金沢に帰るという内田先生をバス停までお送りし、その後、出席者の一人に車でホテルまで送ってもらった。


10月20日(月)、朝、ホテルでテレビを見ていると、昨日の会の出席者の一人から電話があり、すぐ近くの県民会館で「越中文学展」が開催されていると教えてくださった。瀧口修造についても展示があるという。早速行ってみると、この企画展は、北日本新聞が連載記事で紹介した、富山を舞台にした文学や富山出身の文学者の著作を、実際に展示するもので、瀧口についてはミロに関する著作、詩画集を中心としたものだった。44人にも及ぶ文学者にほぼ均等のスペースを割いてあるので、展示内容に少しばらつきがあるようにも感じられた。

ホテルに戻って預けていた荷物を受け取り、駅に行く。10時半初の東京(池袋)行き高速バスに乗る。3列シートの一番前の真ん中の席が取れた、前方への眺めがよく、足元もゆったりしていて快適だった。途中で3回ほどパーキングエリアに寄り、夕方池袋に到着。JRで横浜に戻る。

室町将軍家の至宝

selavy2008-10-22

10月18日(土)、9時前に家を出て、新横浜駅へ。指定席を取ってある「こだま」まで少し時間があったので、新しくオープンした駅ビルを覗いてみる。パン屋で昼食用のサンドイッチを買った後、どういう店が入居しているのか眺めながら、ぶらぶら売り場を歩き回っていると、後ろから「何や、セラヴィさんやないか!」と声を掛けられた。
振り返ると、何と元の組織の若頭だった。「あっ、若頭! お久しぶりでござんす」と、ついつい昔の呼び方で答えてしまったが、すでに額は見事に生え上がり、残った髪も白く変わって、ご老体の風貌。お目にかかるのは15年振りくらいだから無理も無いが。「いま、何をしているんや?」と訊かれたので、「いえ別に何も」と答え(迷いながらも)名刺を渡す。「さよか…。一度、事務所に顔を出しなはれ。あんたはんほどの腕があれば、いつでも大歓迎や。」といわれ、「はあ、心がけておきます」とか何とか、曖昧な返事をする。若頭の方は、束ねていた島を若衆に譲り、今は顧問格となったが、それでも週2〜3回は顔を出しているそうだ。この日はたまたま名古屋まで視察を兼ねて「玉転がし&芝刈り」に出掛ける由。次の「のぞみ」に乗るそうで、エスカレーターまで付いていきお見送りする。(同じ電車でなくてよかった!)


昼過ぎに名古屋に到着。その足で市美術館に行き、畏友マン・レイ・イスト氏ご推薦の「ピカソとクレーの生きた時代 ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館所蔵作品展」を見る。確かにクレーの収集はかなり充実しているようたが、クレー美術館なども出来ている今日の眼からすると、それほど点数が多いようには見えない。展示に付された解説も、いくつかはやや首を傾げる内容だった。だが、そんなことより、ナチスによって退廃芸術の烙印をおされたクレー作品の(元からあった)収集を復元してさらに拡大することが、戦後のドイツの美術館にとってどんなに重要なことだったか、この点を知る事ができたことが何よりも収穫だった。
あまり見る機会のないフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、マックス・ベックマン、カルロ・カッラや、シュルレアリスムの周辺に居たというリヒャルト・エルツェの油彩を見ることができたのも収穫。R.ドローネーの油彩「窓」にはシビレた。3点のカンディンスキーの壁画下絵、マン・レイの油彩「詩人ダヴィデ王」、タンギーの初期(1928年)の油彩「暗い庭」(ブルトン旧蔵)も、印象に残った。


続いて、市美術館からバスに20分ほど揺られ、徳川美術館へ。(名古屋市内はもともと道の幅が広い上、元の市電が走っていた部分がバス専用レーンになっており、渋滞がまったくなかった。)この美術館を訪れるのは初めてだ。3時前に到着したのだが、常設展も点数が多く、これを見始めるととても時間が足りなくなるだろうと、すぐに見当がついた。常設はそのまま通り過ぎることにして、第6室からの特別展「室町将軍家の至宝を探る」を見る。
素晴らしい展覧会だった(個人的には本年のベストか)。展示されるのは大正6年の入札以来という李迪「犬図」(狩猟犬サルーキの親子。探幽による模写はどこかで見たことがあると思うが、思い違いだろうか)、近年再発見された伝馬遠「高士探梅図」、伝趙昌「茉莉花図」などはもちろん、教科書で見たことのある玉澗、牧谿、夏珪、梁階などの代表作がそれこそ目白押し。さらに能阿弥「花鳥図屏風」、藝阿弥「観瀑図」、相阿弥「瀟湘八景図」などの基準作や、(伝)周文、祥啓、藝愛らの日本の水墨画が並べられ、これらも細部までじっくり眼に焼き付けた。特に藝阿弥の緻密な画面構成は凄かった。
能阿弥、藝阿弥、相阿弥の三代に渡る「同朋衆」の家系は、室町幕府の文化戦略を担い、収集・管理から展示プランの立案、展示品の選定、さらには、鑑定・評価まで仕切ったわけだが、収集品に附属する各種の文書が展示され、その実際の仕事の在りようを窺い知ることもできた(解説も実に的確だった)。この同朋衆の姿が描かれた唯一の図像である「足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻」も展示されていた。坊主頭に赤い装束、白袴という同朋衆の姿は、予想外に可愛かった。(上図の最下部の、トリミングされて上半身のみとなっている人物が、同朋衆の一人。)
すぐに2時間が経ってしまい、庭を拝見する時間が5分程度しかなくなってしまった。企画展示自体も、別館の蓬左文庫に続いていたことが後でわかったが、見落としてしまったようだ。いつか丸一日くらいかけて、ゆっくり拝見したいものだ。(館内にも庭園にも、和服姿の女性の姿が目立った。たぶん大きなお茶会が開催されていたためだろうが、こういうところもこの土地の文化の厚みが窺われ、羨ましく感じられた。)
バスで名古屋駅まで戻り、名鉄ビルの地下でおにぎりを買ってから、高速バスで富山に向かう。(おにぎりは、その場で握ってくれるので、海苔の香りが実に芳しかった。コシヒカリの新米に、具はシャケ、たらこ、ちりめん山椒、紫蘇。まさに日本人冥利につきる。)車内も二人がけのシートを一人で占領することができ、実に快適だった。
途中、高山あたりの高原のパーキング・エリアで15分ほどの停車時間があったので、バスから降りてみたが、下界の夏のような暑さとはうって変わり、外はまさに秋の高原だった。空気ひんやりとし、空も冴え冴えとしており、レモンの形をした月が美しかった。夜9時過ぎに富山に到着した。(続く)

語り手たちの秋の声

selavy2008-10-17

10月某日、慶應義塾大学の三田キャンパス東館展示スペースで「語り手たちの秋の声 クレー、タピエス、トゥオンブリ」(富士ゼロックス版画コレクションによる)を見る。
クレーは「小世界」(1914年)、「フォーゲル劇場」(1918年)、「ホフマン風の情景」(1921年。右図)、「綱渡り師」(1923年)、「数を数える老人」(1929年)の5点だったが、三田という土地で開催された展示のためか、見ていて同時期の瀧口修造の姿が思い起こされてきた。
1923年というと、ちょうど瀧口修造慶応義塾に入学した頃だ。大学に幻滅して図書館に籠もり、ウィリアム・ブレイクなどを読み耽ける日々を過ごしていたが、結局、同年末にいったん退学して北海道に渡る。その後、姉の説得で25年に再入学し、英国留学から帰国したばかりの西脇順三郎の指導を受けるようになる。29年にはその西脇の『超現実主義詩論』の編集を手伝い、巻末に「ダダからシュルレアリスムへ」を寄せたり、『瀧口修造の詩的実験』の代表的なテクスト「実験室における太陽氏への公開状」を発表したりしている。
クレー以外の、トゥオンブリタピエスも、造形と言葉の境界を考えさせるもので、1960年頃から瀧口修造が始めた造形の試みとも関連があるようだ。小さな展示だったが、なかなか興味深く見ることができた。
都営三田線三田駅まで歩いていくと、途中、大通りを左に入ったすぐ右側にその名も「白十字」という喫茶店があった。西脇周辺に集まり始めていた上田敏雄、佐藤朔、瀧口たちのたまり場となっていた喫茶店も、たしか「白十字」という名前だったはずだ。今の店の入り口は、紫色のプラスチック製の自動ドアだし、少なくとも外観は(学生街よりむしろ繁華街がふさわしい)ごくありふれた店だ。文学的雰囲気はあまりないし、若き詩人たちが好んで集まる店のようには思えない。その後建て替えられたのかもしれない。
神保町に出て、某T書店に行く。いささか旧聞ながら巨人の優勝を祝い、その他、店主と四方山話。戦前の雑誌「椎の木」について少し聞いてみると、棚から日本近代文学館編『日本近代文学大事典』を出してきて、「椎の木」の項目を調べてくれた。詳細で実に参考になった(執筆者は伊藤信吉)。
この事典、全6冊で一時は6万円くらいしたそうだが、その後、他の辞典類が出たため値下がりして、今は2万円を切るくらいに値段がこなれてきたそうだ。「それでも内容は一番信頼できる」などと聞いているうち、話しの流れで買うことになってしまった。まとまった出費はかなり痛いが、これだけ中味があって1冊3千円なら、まあリーズナブルか。
(明日から名古屋、富山に旅行に出かけますので、来週まで更新はお休みします。戻ったらまたアップいたします)