石川町・神保町

selavy2008-12-06

12月2日(火)、午後から神奈川近代文学館(写真)に行き、戦前の雑誌などを閲覧する。時間に余裕をもって訪れたつもりだが、調べなければいけない事項が次々に出て来てしまった。閉館時間は6時半で、その30分前が複写依頼締め切り時間になっているのだが、その間際にコピーをかなりまとめて依頼することになった。コピーが出来上がってきたのは6時40分頃。すでに表の出入り口は閉められ、通用口から退館。クリスマス・セールの真最中の元町商店街を抜け、石川町駅からJRで帰宅。

12月4日(木)、昼前に家を出て、神奈川近代文学館で調べ物の続き。ある詩集の複写を依頼したら、「著作権が切れていないので、全体の半分以下でないと駄目です」といわれ、仕方なくコピーする頁をセレクトする。ここ数年、複写が厳しく制限されるようになってきたようだ。商業的に利用するつもりはないのだが、理由の如何にかかわらず、駄目らしい。
午後3時過ぎに作業が終了。電車を乗り継ぎ、神保町へ。某T書店を覗くと店主夫妻が在店。「最近、顔を見なかったね」「ええ、ちょっと作業をしていたもので」と答え、先日送られてきたF書房一人展の目録について話を向けてみる。「泉鏡花荷風、谷崎など、かなり粒が揃っているじゃないですか。三島由紀夫も珍しいものだし、尾形亀之助も面白い」というと、「どれだけ売れるかなあ。まあ、売れ行きの状況や反応は、三島あたりに一番はっきり出るね」とのこと。
そこへ証券会社の営業マンである常連客の一人が来店。店主と三人でしばらく話し込む。景気の話、政府の経済対策の話、さらに漫画、漢字の読み方などへと話が盛り上がっているところに、流暢な日本語を話す外人客がやってきた。
「谷崎の細雪のハードカバーはありますか?」「うちは中央公論社版の署名入りしかないです」「別に署名本でなくても、文庫でなくハードカバーだったらいいんですけど。ちなみにその署名本はおいくらですか?見せていただけますか?」「その棚にあるでしょう。○万○千円です」「ああ、これですね。わかりました。どうもありがとうございます」というと、その外人客は店を出ていった。
三人で思わず顔を見合わせながら「ちゃんと敬語をつかっていたなあ」「『ちなみに』なんて言っていた」「日本人より日本語が上手いくらいだ」と言い、そこから話はジェロやマルシアの日本語の美しさに及ぶ。
「最近のアナウンサーは、やたらと最初の音節にアクセントを置くから、聞き苦しい。行政、製品、船体などは、もともとアクセントを付けない言葉だ。人体と靭帯の区別もできないんだから」などとブツブツ言うと、店主に「まあ、そんなことを言うのは加齢してきた証拠だな」と言われてしまった。「ひょっとするとそうかもしれないと思っていましたが、やはりそうでしたか。このあたりで切り上げて、カレーでも食べて帰ろう」と言い残して店を出る。といっても、スマトラにもエチオピアにも寄らず、新刊書店をハシゴして、帰宅。

再びトリエンナーレへ

selavy2008-12-01

11月28日(金)、みなとみらい近くで知り合いと昼食。知り合いの友達も近くまで来ていることがわかり、急遽合流。その友達は、ご主人が職場でノイローゼに陥り、リストラされそうになっているという状況だそうだ。にもかかわらず、まるで他人事のような顔をして飄々としている。まだ童顔の残る若い方なのに、よくできた人だ。ご主人とはかなり歳が離れている由で、「入院した時にも看護婦さんに親子に間違われた」などと笑っている。久しぶりに楽しいひと時を過ごすことができた。
昼食後、二人と別れて、赤レンガ倉庫まで歩き、横浜トリエンナーレの続き。会期末が近いためか、平日にもかかわらず、若い観覧客が多い。先日十分に時間をとることができなかったタージマハル旅行団、ハイレッドセンターなどのドキュメンタリーフィルムを見る(離れたところから「肉体の叛乱」の音楽が聞こえてきて、閉口した)。前回素通りしてしまった灰野敬二、ハンネ・ダルボーフェンなどもこの日はじっくりと聞くことができた。
早めに切り上げて神奈川近代文学館にまわるつもりだったが、結局、終了時間の6時まで会場に居ることになった。桜木町駅まで歩いて戻る。途中ワールドポーターズの脇を通り運河パークまで行くと、MM21の夜景が海面に映って美しかった。

11月29日(土)、神奈川近代文学館に行き、5日(金)の某研究会での発表に備えて調べ物。ここはコピーが1枚40円と駒場日本近代文学館より安いが、こちらには所蔵されてなく、駒場にしかない雑誌類もある。
帰り道、石川町駅近くのラーメン屋が、開店○周年記念として値引きセールをしていた。夕食にはまだ早かったが、200円引きに釣られて入った。トッピングに海苔と煮玉子を入れてもらったら、結構な値段になってしまった。

11月30日(日)、知り合いのフランス文学の研究者からのお誘いで、フランスから来日している美術研究者に一緒に会うことになっていたが(日本のシュルレアリスム美術に関心を持っているとかで、説明役を仰せつかった訳)、朝、まさに出掛けようとしているところに電話が入り、そのフランス人の研究者が熱を出してキャンセルになった、とのこと。
手に余る任務から開放されてホッとすると同時に、その研究者に直にお会いできるのを楽しみにもしていたので(翻訳書も出ているかなりの大物なので)、少し残念な気持ちもする。
空いた時間で5日の発表準備に集中しようとするが、なかなか簡単に気持ちが切り替わらないものだ。

タイム・クレヴァス

selavy2008-11-26

11月23日(日)、竹橋の近代美術館で開催された美術評論家連盟主催のシンポジウム(パネル・ディスカッション)「批評を批評する」を聴講。パネリストは針生一郎柄谷行人岡崎乾二郎の3人。司会は松濤美術館の光田由里学芸員。チラシに用いられた瀧口修造の青いデカルコマニーの図柄も、たぶん光田さんの選択だろう。


11月24日(月)、富山から出掛けてきた知り合い二人と落ち合って、横浜トリエンナーレを見る。馬車道のレストランで昼食にしている間に、あいにくの雨模様となってしまったが、何ヶ所かに分かれた会場はどこも若い人でいっぱいだった。会期末が近づいてきたこともあるのだろう。
メイン会場の新港ピアには、あまり見るべき展示はなかったように思う(ダダの研究で高名なW大学のT先生とパッタリ出会い、ご挨拶した)。一回りして赤レンガ倉庫に移動する。ちょうど大桟橋には、日本最大の客船「飛鳥2」(上図)が停泊していた。赤レンガ倉庫では、知り合い二人はミランダ・ジュライの廊下を通りながら言葉を読む作品に期待していたらしいが、長蛇の列ができており、「1時間待ち」と言われて諦めた。
私は「肉体の叛乱」「タージマハル・トラヴェラーズ」「バス観光ハプニング」の3つの貴重な映像に関心があったが、これらをすべて見ていると時間がなくなるので、早々に切り上げて(時間が取れれば再訪したい)、次の日本郵船の会場へ。
1階では勅使河原三郎の前ではまたしても行列。「30分待ちです」とのこと。諦めて列の脇を通って奥のブースに入る。するとそこはヘルマン・ニッチュのグロテスクな生贄儀式の映像とインスタレーションだった。確か以前、木場の現代美術館で見た記憶がある。まるでゴルゴタの丘の惨劇に立ち会い、自らも手を下しているかのように嗜虐的な(ブースの番号まで13番だ!)、しかしそれと同時に自らが生贄と化して陵辱されているかのように被虐的な、相反する複雑な感覚を呼び起こされる。トリエンナーレ全体の「タイム・クレヴァス」というテーマには相応しいかもしれないが、体質的に合わないので、すぐに出ることにする。
2F・3Fに上がると、ここでも映像が中心で、食傷気味になる。マシュー・バーニーの前でも行列が出来ており、前を素通りする。オノ・ヨーコのカッティング・イヴェントのビデオを少し見る。結局この会場では小杉武久中西夏之の日本人作家の質の高い展示に救われた(どちらも会場の設営が今ひとつなので、もったいない感じだった)。
ここでちょうど田中泯のパフォーマンスが始まる時間となったが、場所も雨天決行なのかもわからなかったので諦め、三渓園まで行き内藤礼中谷芙二子の作品を見ることにする。表通りでタクシーを拾い、20分ほどで到着。小雨模様で吐く息が白くなるくらいの寒さの中を、池の向こう側まで10分ほど歩いて、ようやく展示されている一角に辿り着いた。
内藤礼の作品は、薄暗い茶室の天井から一本の細い絹糸を下げ、その糸を躙口や窓から入ってくる微風と畳の上の電熱器による上昇気流によって動かすというもの。音のない静謐な室内で、糸だけがまるで生命を有しているかのように微妙な動きを見せる。その繊細さ、簡素さは、茶室の空間に相応しい。
中谷芙二子の作品は、茶室に程近い渓流に霧を間歇的に発生させ、その霧に対して原色の照明を当てるもの(照明は霧の動きに反応して変化するようになっている)。青色や赤色の照明を反射させながら、渓流の上流から木立の中を霧が渡っていくさまは、息を呑むほど美しい。この美しい日本庭園・日本家屋での二人の作家の展示には、雨も寒さも逆に合っていたようだ。夕暮れ時に来たのも大正解だった。
駆け足でじっくり拝見できなかったが、全体を通じて、特に海外作家の展示の質はあまり高くないように感じた。タクシーで知り合い二人を根岸駅に案内し、そのままJRで帰宅。

セザンヌ主義など

selavy2008-11-23

11月14日(金)、横浜美術館の「セザンヌ主義―父と呼ばれる画家への礼賛」展のオープニング・レセプションに、知り合いのMさんとともに出席。「セザンヌ主義」というタイトルは、少し踏み込みすぎだと思うが、セザンヌが多くの画家から敬愛された事情を何か一言で(つまりキャッチ・フレーズにして)言い現そうとしたということはわかる。展示の内容はかなり濃いので、期間中、また何度か足を運びたい。

11月18日(火)、午後から、来月初旬に予定されている某研究会での発表の下調べのために、駒場日本近代文学館へ。稀覯雑誌をいくつか閲覧し、コピーしてもらう。この館はコピー代が1枚100円もするので、必要記事と目次・奥付をたのむとあっという間に○千円ということになる。これなら結局F書房の目録に掲載されたときに買っておいた方が、安上がりだということになる。決して安いとは思わないけれど。
調べ物を終え、ついでに同館で開催されていた「志賀直哉をめぐる人々」展を見る。白樺派の面々や木下利玄などの自筆絵葉書が面白かった。有島生馬や岸田劉生は当たり前だが、文学者たちの絵もなかなか上手いのには驚いた。誰の葉書だったか、ダンテとベアトリーチェなど、西洋文学史上の恋人同士を何組も相合傘にし、裏面いっぱいに悪戯書きした葉書も面白かった。小林多喜二に1コーナー当てられていたのも、時節柄か。
夏目漱石の直哉宛大正3年の手紙を見ることができたのも、よかった。朝日新聞への連載小説の執筆を依頼した手紙らしく、白い巻紙に毛筆で記された美しい手紙だった。実はこの年、当時11歳の少年だった瀧口修造漱石から手紙をもらっているのだ。といっても修造から出した手紙への返信なのだが、「文学少年を叱責して、まじめに学校の勉学にはげみなさいときびしく諭した手紙だった」そうだが(瀧口「自筆年譜」による)、戦災で他の貴重な資料とともに失われた。きっとその手紙もこういう美しい手紙だったのだろう。
帰り道、渋谷に出て、ポスター・ハリス・ギャラリーで野中ユリ展を見る。ケバケバしい通りをギャラリーに向かって歩いていると、ちょうどギャラリーが入居している建物から、この展覧会の仕掛け人で、以前アートスペース美蕾樹を経営していた生越さんが出てきた。お目にかかるのはずいぶん久しぶりだ。ラブホテル街の真ん中で少し立ち話。「約束があるので、行かなきゃいけないけど、ゆっくり見て行って。Sさんも来ているわよ」とのこと。「どのSさんだろう?」と思いながらギャラリーの扉を開けると、中に居たのは某出版社の編集者Sさんだった。Sさんとも少し立ち話。
野中さんの1970〜80年代のデカルコマニーやコラージュの繊細さには、心を打たれる。新作の箱のオブジェも2点展示されていた。展示リストに売約済みの表示が付いている黒いデカルコマニー4点が見当たらないので、もう展示されていないのかとギャラリーの人に訊くと、中から出して見せてくれた。これもなかなかよかった。近くの店でフランス・パンを買い込んで帰宅。

茶飲み友達

selavy2008-11-16

11月13日(木)、午前中に外出。まず白金の畠山記念館で「数奇者 益田鈍翁 心づくしの茶人」展を見る。今年はこの大財界人(三井物産日本経済新聞社創立者)にして大茶人であった鈍翁の生誕160年、かつ没後70年にあたるそうで、これを記念する展覧会。
李朝の茶碗 銘「毘沙門堂」、本阿弥光悦の能面「山姥」、伝宗達の「扇面草花図」、豊臣秀吉の消息など、この記念館が所蔵する鈍翁の旧蔵品や鈍翁自身の書画を中心に展示するもの。館の創立者畠山即翁は鈍翁より34歳年下だが、茶を通じた交友があり、即翁は鈍翁から多くを学んだという。
この館の前身だった茶室「般若苑」に鈍翁を招いて茶会を催すこともあった。(確か茶室の竣工後、最初に開いた茶会に招いたのが鈍翁で、「般若苑」という名前も、その際に鈍翁が命名したものと解説されていたと思う。)両者が交わした書簡なども展示されており、鈍翁に対する即翁のひとかたならぬ敬愛の念は、展示からも伝わってきた。
展示品を拝見した後、雰囲気の良い庭を散策した。といっても元の般若苑の跡地の過半(即翁の私邸の部分)は、記念館とは別組織になったので、広くはない。(私邸の部分は長い間料亭として使われてきたが、最近取り壊されて更地となったので、いずれはマンションか何かの鉄筋コンクリートの建物が建設されるのだろう。この風雅の地の恵まれた環境も風前の灯かもしれない。)

品川駅まで歩き、ガード下のラーメン店街(有名店が7店集まっており、どこも行列ができていた)の中の一店で昼食にした後、東京駅経由で日本橋に出て、三井記念美術館の「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」展を見る。
如春庵は愛知県一宮の素封家の子息で、16歳の時に本阿弥光悦の黒楽茶碗 銘「時雨」(上図)を、また、19歳にして同じく光悦の赤楽茶碗 銘「乙御前」を所持したというほどの、天性の審美眼を備えていたという。祖父から買い与えられたものとはいえ、最初に手に入れたのが「時雨」である以上、その後の選択が悪かろうはずはない。その後も茶碗、茶道具、軸物などの名品を集めていったそうだ。
今回の展示は、名古屋市博物館に寄贈されたものを中心に、そうした如春庵の蒐集品の数々を紹介するもの。同館からの巡回で、展示点数は少なくなっているそうだが、焼き物ばかりか、如春庵が発掘したという「紫式部日記絵詞」、東山御物の伝任月山筆「稲之図」などが展示されていた。(佐竹本「三十六歌仙絵巻」は、残念ながらすでに展示期間が終っていた。益田鈍翁による絵巻の切断の際に立会い、40名余りによる籤引きで「一番」を引き当て、「柿本人麻呂」を所持する幸運に恵まれたという。)
収集以上に重要なのは、如春庵が『志野、黄瀬戸、織部』(私家版)を出版したことかもしれない。この豪華図録は今日でも参照されており、要するにこの分野のスタンダードを打ち立てたということに他ならないだろう。
如春庵は、益田鈍翁より39歳年下だったが、やはり厚い親交があったようで、鈍翁が自ら手がけた書画、茶碗、茶杓や茶会の記録や書簡なども展示されていた。如春庵は財界人ではなく全くの数奇者で、二人の交友は純粋に茶と古美術を通じたものだったので、子供のような無邪気さが感じられるようだ。

即翁にしろ如春庵にしろ、鈍翁とはずいぶん歳が離れていたが、実業界を引退した後の鈍翁は、こうした茶道や古美術品の蒐集という趣味を同じくする若者との交際・往来に、さぞ楽しみを感じていたことだろう。二つの展覧会を通じて、そのような近代茶人たちの交流の暖かさが感じられたのが、何よりもよかった。

1階のフルーツ専門店でマンゴー・シェイクを頂いた後、茅場町まで歩き、森岡書店に行く。若い女性デザイナーで版画家の鎌田光代さんのリトグラフ展「いろいろかたち」を見る。家や動物の形を幾何学的な形と色の組み合わせで構成する作品で、温かみとユーモアがあり、楽しめた。
歩き続けて疲れたので、神保町には寄らず、そのまま東京駅からJRで帰宅。

横浜の動物たち

selavy2008-11-13

11月12日(水)、午後から外出。まず横浜駅近くの百貨店内の美術館で開催されている三沢厚彦「ANIMALS '08 in YOKOHAMA」を見る。鑿彫りによる動物の木彫で、油絵具で彩色されている。白くま、犬、猫、ライオン、豹、キリン、猿、コウモリ、ウサギなどなど。実物をモデルにしているようだが、むしろ「ぬいぐるみ」を大きくしたように単純化されており、猫以外は基本的に同じ眼・同じ表情。ポーズにも動きは乏しい。
といっても、形骸化ということではなく、一匹一匹はそれぞれ生き生きとしていて、まるで絵本から抜け出してきた主人公たちのように自分の物語を生きている。中でも白くま(右図)と犬がよい。作家自身もブルテリアが好きなのだそうだ。小さなカエルもまるで宝石のように美しかった。
平日の午後なので、観客はそれほど多くはなかったが、先日の木喰展のときと同様、見ている人が皆一様に幸福そうな表情をしているのが印象的。子供の声がこれほど好ましく感じられた展覧会も珍しい。図録はBTと同じ判型の120頁ほどの厚さで、1800円は若干高めだが、(出版社とのタイアップでなく)この美術館のオリジナルらしいので、とりあえず買っておいた。
その後、東横線半蔵門線を乗り継いで神保町まで行き、某T書店に顔を出す。店主がやや疲れた表情で座っていた。神田古本祭りで休日に店を開けたので、月・火曜日と代休にして東北地方を旅行し、帰ってきたばかりなのだそうだ。しかも帰ってきたら仕入れの話が集中してしまった由。お土産の煎餅とお茶を頂きながら、世間話。野球の話題は注意深く避ける。最近少し気になっているプラトン全集のことなどを教えてもらった。
その後、九段下にまわり、近くの某所で開催された写真関係の研究会に出席。この日のレポーターは某美術館の女性学芸員さんで、最近出版された自著の冒頭に置かれた中平卓馬論を基にした発表だった。中平と「芸術」との矛盾に満ちた関係について、60年代末ごろからの現代美術や写真家たちの動向を視野に入れながら考察するもので、あれほど「芸術」を否定していた中平だが、その批判はむしろ古風な芸術観に基づくもので、逆に現代芸術の地平・方向から見てみると、中平は最も真摯な現代芸術家の一人と言えるとの趣旨。長い間、日本の「芸術写真」と現代美術の二つの領域を中心に研究を続け、企画展を開催してきた方だけあって、なかなか説得力があった。
終了後、出席者で軽く食事に行ったようだが、先週からの寒さでやや風邪気味なので、失礼して帰宅。

上野・神保町・淡路町

selavy2008-11-09

11月8日(土)、昼前に出掛け、上野の東京都美術館で開催されているフェルメール展の関連シンポジウムを聴講する。出席者(パネリスト)はフェルメールが専門の学芸員一人と大学教授二人、司会(自らの発表もあった)はドイツ美術が専門の名誉教授、この合計四人。
日本のフェルメール研究の第一線に居られる方ばかりの超豪華メンバーだ。しかも、司会の長老格の方以外の三人はほぼ同世代で、学生時代からの研究仲間ということもあり、ほのぼのとした雰囲気(こういう機会では珍しいことだ)。演題はそれぞれ、1.日本におけるフェルメール受容。2.フェルメールとPerspectief。3.「小路」に関する諸問題。4.フェルメールの作品に見られるアルス、主題とモチーフ。 

1.日本で最初にフェルメールの作品が展覧会に出品されたのは、いつのことか。またこれほどまでの人気が出るようになったのは、いつからか。(最初に展示されたのは1968年。以降ほんの数点にすぎない。ある程度まとまって展示されたのは2000年の「フェルメールとその時代」展がはじめて。今回はそれ以来となる)
2.ハーグの名門の若者が1669年にフェルメールを訪れ「そのperspectiveを見て強く好奇心をそそられた」という日記を残しているが、この「perspective(オランダ語でperspectief)」とはどういう意味で、この若者はどういう作品を見たのか。(上掲「絵画芸術」である可能性が高いとの見解。そこから話はフェルメールがいかに緻密に画面を構成しているかに展開された)
3.「小路」という作品の特殊性、制作年代、描かれた場所、制作動機など。(「ユリイカ」への寄稿を敷衍された内容で、フェルメールが少年時代を過ごした家の裏手に位置していたフォルデンス・フラハトの家と、隣接する養老院の一部を忠実に再現したとする仮説を再検証する内容)
4.特に「絵画芸術」という作品の主題について。この作品(上掲)は月桂冠を被りトランペットを手にした女性モデルを画家が描いている光景を描いたものだが、これは絵画の制作というものを自由学芸(リベラル・アーツ)と並べて位置づけようとしているように思われる。絵画術という芸術そのものを主題としたものである。

どの発表も中身がギッシリで、各発表者とも持ち時間を15分くらい超過したようだ。結局、パネル・ディスカッションの時間は省略され、4人の発表後、そのまま質疑応答に入ることとなった。内容のある質問が多く、発表も質疑応答もなかなか充実したシンポジウムだった。
出席者の教授一人は、今回の展覧会に出品されている7点の中の3点、すなわち「マルタとマリアの家のキリスト」「ディアナとニンフたち 」「ヴァージルの前に座る女」を、フェルメールの作品とすることに疑問を持っておられるとわかった。以前、私が見たときもこの3点には少し違和感を覚えていたので、教授がこのように判定される根拠を是非とも知りたくなった。ご著書であるフェルメールの研究書を拝読しなくてはなるまい(八坂書房から増補改訂版まで出されている)。
(私が見たのはつい先日のことのように思えるが、何と8月のことだ。ついでながら、私の眼も捨てたものではないようだ http://d.hatena.ne.jp/selavy/20080808


会場に居た知り合いを誘って、御茶ノ水から神保町に回り、某T書店に行く。ちょうど店主のご母堂が店から出て来て、帰宅されるところだった。「お久しぶりですね」と挨拶すると「身なりがいつもよりキチンとしているから、気がつかなかったわ」と言われてしまった。苦笑しながら「今日はある学会の会合に出てきたもので」と説明する。(いつもいかにラフな格好をしているかということだ。)そのまま健康状態のことや(不)景気のことなどを少し立ち話。「景気がいいのはTさんくらいですよ」というと、「あら、うちだって景気が悪いわよ」と言い残こして帰って行かれた。
店頭の均一本を少し漁ってから、店のなかへ。今日は知り合いと一緒だったこともあり、あまり話をしなかった。すぐに6時になり、店主に挨拶して店を出る。その後、新刊書の特価書店に回り、学術系の文庫を何冊か買う。
平日ならM翁に行くところだが、土曜日は早めに看板となるので、そのまま淡路町まで歩き、手打ち蕎麦「Mや」に入る。焼き鳥、天ぷらなどを酒肴にビールを飲み、〆にざる蕎麦を誂える。蕎麦も酒肴も酒もM翁の方がはるかに美味いと思うが、この店の庶民的な、まるでパリのカフェを想わせる雰囲気も捨てがたい(年月だけが創り出せるものだ)。お勘定もまあリーズナブルだろう。秋葉原駅まで歩き、知り合いと別れて、JRで帰宅。